砥上裕將『線は、僕を描く』

4分の3、読み進めたところで一旦本を閉じた。閉じた瞼の隙間からじわじわ涙が出てきた。
決して悲しい話なんかじゃない。悲しい気持ちになるような本なら他にいくらでも知っている。
悲しいのではなくて、切ないような気持ちだ。
美しいものを見た時の感動はきっとこんな感じなのではないかと思った。ただ物語を読んだだけなのに、実際に絵を見ていたような気がする。
でもおかしいな。
美しい絵ってどんなものだろう。泣けるくらい感動するような絵って?
見たこともない絵を、見たような気になって泣けてくるのだからおかしいよね。
なんだろう、この切ない気持ちは?
とりあえず、読み終わってから考えよう。

色彩のない味気ない絵。煙のようなモヤモヤっとした絵。それが私の水墨画に対するイメージだった。水墨画なんて、これまでほとんど見ないまま生きてきた。
毛筆で描いたことがあるのは、絵手紙くらいだ。祖母が絵手紙をやっていて、私も描かせてもらったことがある。野菜や花や犬を描いた。お世辞にも「美しい」とは言えない絵だったけれど、面白かった。最初に炭をすって黒い線で輪郭を描く。下書きなしの一発勝負。鉛筆と違って、毛筆は柔らかいからほんの少し力を入れただけで線がぶれる。墨が乾いた後、顔彩絵の具を水に溶かして色をつけた。紙の上でじわりと色が広がる様は見ていて飽きなかった。
水墨画は墨の濃淡で全てを表現する。葉の鋭さも、花びらの柔らかさも、赤も緑も、どんな色も。
そんなことが可能なのか。
どうやって描くのだろう。ワクワクしてくる。
作中、絵を描く時の描写がとても面白い。その人の生き方や性格が線に表れるのだ。いろんな人がそれぞれのスタイルで、自分にしか描けない絵を描いている。
一枚の絵を完成させるのに時間はかからない。目の前で実演する「揮毫会」という催しをするくらいだ。あっという間にさらさら描いてしまうような水墨画だけれど、そう簡単なものでもない。失敗は許されない。当然集中力がいるし、技術をものにするまでは何度も練習を積む必要がある。奥が深いんだなと思う。

私も、やってみたいなあ。
命を絵に描くってどんな感じなんだろう。命は一瞬一瞬変化し続けるけれど、絵は変わらず残るものだ。
自分の命をかけて花の命と向き合うとは、どんな感じなんだろう。「絵を描く」という行為を通じて、花の命と自分の命がいっしょになる。

自分の手を超えたものが、自分の手によって生まれていると思えた時、初めてそこに命が生まれていると感じる。

命はつまるところ、意志だけでは成り立たない。意志を大きく超えたもの、運命がその手順の中に入り込んでいるような気がするからだ。

凡人の私には決して辿り着けないような境地だという気もする。でも何か、すとんと腑に落ちるようなものがあった。自分で作り出すことができるものには限界がある。命を持った作品は、子どもみたいに親である作り手の手を離れて生きていくんだな。

主人公の「僕」は、心の中に真っ白な世界を持っている。絵の中の余白、描かれる前の紙の色だ。悲しい経験から、そんなふうに真っ白になってしまった。
同時に、水墨画について何も知らない。私なら絵手紙を描いた経験から水墨画を理解しようとする。けれども「僕」はありのままに水墨画と向き合い、まるっと自分のものにしていく。お手本を見て何十枚も練習し、先生や先輩の絵を眺め、描くところを見つめる。ひたむきな姿勢にグッとくる。
そしてみんな、「僕」に優しい。才能があるからとかではなくて、やっぱり、姿勢に惹きつけられるものがあるのだろう。背筋がピンと伸びているとか猫背だとかそういう「姿勢」じゃなくて、ただ生きているその姿勢のことだ。言葉にして伝えられないことを抱えているけれど、周りの人たちは絵を見るように「僕」に何かを感じ取る。
「運命に対する態度を決めかねている」と、「僕」が自分のことをそう考えていても、そのままでもう十分だと私は思う。彼は必死に外の世界を見ようとしている。「頑張ったね」という先生の言葉は、「僕」が抱える悲しみも何もかもわかった上でかけられた言葉で、だから優しい。

水墨画が美しいのは、取るに足りない草木でも命を持っているということを、絵に描いているからだ。
たぶん、誰もが自分では、自分が生きているということが見えないのだと思う。一生懸命な人には、自分ではその一生懸命さが見えない。
他人の人生も、大抵の場合、ヴェールがかかったように覗いて見ることはできない。西濱さんや斉藤さんがどんな人生を送ってきたかは明らかにされなかったけれど、彼らには彼らの人生があって、その生き方が絵に表れているんだと思う。
本当は、生きている、それだけで特別なことだ。生きている限り、線は続いていく。変化していく。

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