味噌汁は無事です

結構真剣に祈っている。
いいお休みを。

朝、家を出る時、扉の外にセミの死骸を見つけた。ドアと壁に囲まれた隅っこで、腹を上にして死んでいた。
ちょうど燃えるゴミの日で私はゴミ袋を手に持っていた。しかし、解けない。袋の口は固く結ばれて、すぐに解けるような状態ではなかった。バスに乗り遅れるわけにはいかないから、帰ってきたらなんとかしようと決めて歩き出す。

夏休み前の最後のひと仕事。ジリジリと照りつける太陽の下、部署の人間総出で箒を手に砂利を掃いていった。帽子の下で前髪が汗で張り付いている。箒の柄を強く握りすぎたのか親指にまめができた。たかだか30分で腕が赤く日焼けした。
午後は災害用備品の確認をした。前日に南海トラフ地震注意報が出されたため、それを受けて備品のありかを確認することになったのだ。メールでマニュアルが回ってきた。災害対策計画なんて目にするのはこの時が初めてだったのだけど、ずいぶん綿密に立てられているのだなと思い心強く感じた。
暑い暑いとぼやきながらも、いつもよりなんか明るくて楽しかった。みんなで一緒にやる仕事がもっとあればいいのにと思った。同じ空間で仕事をしているのに、普段は各自担当する仕事を別々にやっている。私は自分の周りの人が何をやっているのかよく知らない。ああ、あの人が確認していた「災害用備品」って、これのことだったんだ、と物置に積まれた段ボール箱の数々を目にして納得した。

帰り際、声をかけられた。
「いいお休みを」
Have a nice vacation! を日本語に訳したらこうなるのだろうけど、言われて一瞬面食らった。
いいおやすみを。
日本語は優しい響きがする。「おやすみ」が含まれているからだろうか。

帰りのバスに乗る。窓から夕陽を眺めるのを気に入っている。草の生えた斜面に光が当たっているのを木の葉が遮っているところとか、ちょうど影の境界が薄くなっていき、夜に入ろうとする瞬間とか、そういう時間がすごく好きだ。渋滞のせいでうんざりするほどゆっくりとしたバスの進みも、この夕暮れを引き延ばしてくれるのなら甘んじて受け入れようという気持ちになる。

階段に足をかけた時、ハッと思い出した。朝、私、味噌汁を冷蔵庫に入れていなかった!
40度近い気温の中、放っておかれて平気だろうか。鍋の中身が心配で、今更急いでどうにもならないのは分かっていたが、最後の数十メートルは駆け足になっていた。
玄関で私を待ち受けていたのは。
セミ。
ずっとここで死んでいたの。お腹を上に向けたそのままの姿勢で。
味噌汁で頭がいっぱいでセミのことを思い出さなかった自分が、なんだか恥ずかしい。「ずっと死んでいる」なんておかしな表現だけど、土の上ではなくてこんなところで、うちの玄関先で転がったままの姿が哀れに思えた。
カバンを置くとちりとりを手に持った。直接手で触れるのは抵抗があったため、ちりとりにセミを乗せ、公園まで持っていった。カタカタとセミの体がちりとりの上で微かに揺れる。その振動が、まるで急にセミが生き返ったかのように感じられてひやりとした。
木の根元にそっと置く。手を合わせて冥福を祈った。また帰っておいでよ。夏の暑さの中で生きる小さな命よ。

さて。
帰って手を洗って真っ先にやるべきは、炊飯器をセットすることだ。早炊きを選択し、炊飯ボタンを押す。
炊ける間におかずをちゃちゃっと作る。野菜の肉巻きを作るつもりだったけど、チルドケースの中で豚肉がカチカチに凍っていたため断念し、野菜炒めにする。どうせ具材は一緒なんだし。フライパンの上で凍った肉を溶かしつつ、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、小松菜をどんどん放り込む。彩りよし。味付けはにんにくと醤油。肉を食べない自分用に厚揚げも切って追加する。
味噌汁は無事だった。匂いも味も問題なし。お椀に氷を入れ、その上から味噌汁をお玉ですくって注いだ。冷たい味噌汁が私は好きだ。朝方熱い味噌汁を飲んだ時は味が濃く感じられたが、氷で薄めるとちょうどよかった。

「今日、地震が多い」
うちに帰ってきた家族が言っていた。起こるのだろうか、本当に?
たまたま少し前に、南海トラフ地震を描いた小説を読んだ。『TSUNAMI』というタイトルから推して知るべく、大地震が起きて東海地方を含む太平洋沿岸に津波が押し寄せる話。驚くべきことに、東日本大震災が起きる何年か前に書かれていた。小説では原発のメルトダウンを際どいところで阻止したことになっていたけれど、3.11の大惨事を予言していたようではないか。いや、今も予言しているのかもしれない。南海トラフ地震が起きたら危険なのはわかり切ったことなのに、浜岡原発は廃止されていない。
怖いのは津波ばかりではない。地震の揺れでビルが揺れる。名古屋駅周辺のビルが軒並み揺れに揺れた挙句、ポッキリ折れるという光景を読んで震え上がった。建物の中にいたなら、揺れるビルの窓から外へと投げ出される。外にいたならガラスの雨と共に血まみれの人間が降ってくる。いつ地獄絵図が現実のものとなるかわからない以上、名古屋駅には近づかない方が良さそうだ。

寝る前にこんな当たり前のことに感謝した。今日無事に家に帰って来れてよかった。

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