いい旅を

先日のセミに引き続き、今度は小鳥が死んでいた。

昼下がり、いつものトレーニングを終え、疲れた体を引きずるようにして家路につく。世界は砂漠のようだ。こんなに暑いのだから砂漠に違いない。帰る場所を失ったら私はどうしたらいいのだろう。
暑すぎておかしなことを考え始める。とにかく家に着いたらしろくまアイスを食べるんだと、自分を励まして最後の階段に足をかけた。その時だった。
あれは何だ?
階段には雨樋がついている。ちょうどうちの階の雨樋と床が接するところに黄色と黒の羽が見えた。恐る恐る近づいてみるとやっぱり、小鳥の死体のようだ。頭を排水溝に埋めるような格好でじっと動かない。
やれやれ。
2、3日前にセミの死骸を弔ったばかりだった。
仕方がない。こんなところで死ぬのはやめてくれとは言えないものね。
うちの周りに虫や鳥が死場所を求めて集まってくるのか。それとも、大地震が近いことを予期した生き物たちがここ数日、相次いでバタバタ死んでいっているのか。いや、数日の命しかないセミが死ぬのは不思議でもなんでもないか。
たまたまだ。ただの偶然だ。
小鳥に背を向け、私は家に入った。

まずはしろくまアイスだ。ひと休みしてからでもバチは当たるまい。
アイス(ではなくてパフェだった)を食べてちょっと元気が戻ってきたので、小鳥を公園に埋めに行こうと決意した。
その原動力は何かというと、こんなところに死骸を放っておきたくないという潔癖症じみたものかもしれない。小鳥のためというよりも自分のためだ。自分が心煩わされることなく生活を送るため。

小鳥は最初見つけた時と変わらぬ姿勢で雨樋の足元に転がっていた。頭は緑がかったくすんだ色で、翼の黒と黄色の羽が鮮やかだった。羽を広げたらきっと綺麗だろう。体はスズメほどの大きさで、その割にむくっと太いくちばしが可愛らしい印象だ。何の鳥だろう。調べてみたら「カワラヒワ」っぽい。
柔らかそうな羽に触ることができなかった。用意した割り箸の先で小鳥をつつく。確かに死んでいることを確認し、そっとつまんでお菓子の空き箱に移動させる。百円の寿司一貫ほどの重さだった。
腐敗していたら嫌だなと覚悟していたけど、幸い体は綺麗なままだった。傷もなかった。怪我が死因ではないようだ。寿命か、暑さで弱ってしまったのか。

私は小鳥が好きだ。できたら友達になりたいと思う。もしもこの手に止まってくれたならすごく嬉しいんだけどな。
もちろん、そんなことありえないとわかっている。小鳥は人間を怖がる生き物だから。人の手に囚われることなく、自由に飛び回っているのが小鳥だから。
今、一羽の小鳥が私の手の中の、お菓子の箱に収まっている。この子がもう空を飛ばないことが何だか哀しく思われた。
生きている体と死んだ体は何が違うのだろう?
公園に着いて、木の根元に穴を掘りながら私は考えた。息をせず、心臓の止まった体。温もりを失ってしまった、ただの肉塊。
対して、生命とは循環することではないか?呼吸して酸素を取り込み、血液が身体中を巡り、栄養を行き渡らせ、エネルギーを生み出し、老廃物を排出する。
ひっ。
突然、私の手に何かぶつかってきた。反射的に振り払ってしまった。地面に転がり落ちたのは、透明な羽を持つクマゼミだった。あーびっくりした。
クマゼミはジイジイ鳴いていたかもしれない。補聴器を外してきたので私の耳にその声は聞こえてこない。オレンジ色の腹をさらしてもがいているセミに、私は持っていた木の棒を差し出した。小枝のような足が動き出し、木の棒を上ってくる。クマゼミをそばの木の幹に誘導してから、私は穴掘りを再開した。掘っている間、クマゼミは飛び立つでもなく、6本の足を動かして木の表面を歩いていた。大人しそうなセミ。
ねえ。
クマゼミに呼びかける。
きみと私なら友達になれるのかな。
手を伸ばそうとして、やっぱり引っ込めた。クマゼミって噛むかな。子どもの頃は平気で手づかみしていたのに、大人になるとなぜか怖い。

私が掘ったのはごくごく浅い穴だった。スコップを持っていなかったから落ちていた木の枝でガリガリ地面を掘り起こしたのだけど、ずっと雨が降らずに乾燥した地面は固い上、木の根が邪魔して掘りづらい。あまり根っこを傷つけるのも良くないと思ったので、適当なところで小鳥を穴に転がし入れた。小さな体がすっぽり穴に収まった。ほんのちょっと尾羽が飛び出てしまったが、上から落ち葉を被せて覆い隠した。アリたちの食べ物になり、微生物に分解され、木の養分となり、小鳥の体は土に帰っていくだろう。
一生を終えた小さな命に敬意を表して、手を合わせる。

今、目の前に横たわるカリブーの骨は、ゆっくりと大地に帰り、また新たな旅が始まろうとしているではないか。
自然が、いつの日か私たちの想いに振り向いてくれるとはそのことなのではないか。自然はその時になって、そしてたった一度だけ、私たちを優しく抱擁してくれるのではないだろうか。

アラスカの自然と向き合い続けた写真家の星野道夫さんの言葉だ。
死ぬのは怖いことではないのかもしれないな、と思った。私が死ぬ時も、抱きしめられる感じがするのだろうか。人間も含めて全ての生き物は死んだら自然に帰っていく。今まで体の中で循環していたものが、遥かに大きな地球の循環の中に取り込まれていく。
ああ、そうか。
心配しなくても、帰る場所はもともとここにあったんだな。

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