いかに私は人のことを見ていないか

反省する。

最近見ているYouTubeチャンネルにシークエンスはやともさんという芸能人の方が出ていて、その人は幽霊を見ることができる。別のユーチューバーさんとコラボしている動画で初めてはやともさんのことを知った。ユーチューバーさんのことを霊視してどんな生き霊がついているかを伝えていた。
例えば、どれくらいの年齢の女の人の生き霊がついているとか、たくさんの生き霊がつきまとっているとか、霊視したそのままを伝えるだけではなくて、「あなたは優しい人で他人のことを拒まない。だからこんなにたくさん霊がくっつくのでしょう」って感じにその人の人柄を言い当ててしまう。・・・・・・私が文章にしてみたらひどくいいかげんな表現になってしまったけれど、本当は違うよ。もっと正鵠を得たような表現だ。
ついている生き霊を見るだけで、人間の内面みたいなものもわかるのかとびっくりした。

はやともさんは「怪談解釈」の動画もあげている。ただ怖いだけでは終わらない。自分が見た霊や人から聞いた体験談について、「これはこういうことなのではないか」という自身の解釈をつけて話している。
私が知る限り、はやともさんは幽霊を見ることができても会話をしたりすることはないようだ。だからどうしてその場所に霊がいるのか、この人にくっついているのか、亡くなった方の霊であれば何に未練を残してこの世に留まっているのかは、想像するしかない。
対面で霊を見れば「嫌な感じがする」「嫌な感じはない」というのがわかるらしい。確かに、生身の人間が相手でも、「この人イライラしてるのかな」とか「敵意を向けられている」とかは、なんとなく感じ取れるものだ。霊の感情を読み取ろうとするのも同じだろうか。
本当は言葉なんかない方が心は通じ合えるものかもしれない。物言わぬ幽霊の心を理解しようとするはやともさんの姿を見て、そう思ったんだ。

動画を見ていて思うのは、はやともさんはめちゃくちゃ気を遣いながら生きているんだなということだ。霊が見えて、人の内面もわかってしまう。基本的に、頼まれなければ霊視したことは伝えないという。気づいても言う必要がなければ黙っていることもある。
人の気持ちをとても気遣える人だ。
ただ人の心がわかるというだけではなくて、同時に俯瞰的に眺めることもできる。「世間的な常識から見ればこういう立ち位置にある」と断定してしまえる。こういう人には物事がよく見えているんだろうな。

東京は冷たい人間が多いということをはやともさんは言っていた。都会というのは忙しなくて心に余裕がない人が多いのだろう。やらなくてはいけないことを優先するなら、他人に関心を向ける時間は「無駄」になる。むしろ、他者を切り捨てなければ生きていけない場所なのかもしれない。あまりにもたくさんの人が住んでいて、あまりにもたくさんの人が悩みや苦しみを抱えているから、いちいち気にしていたら自分の時間がなくなってしまう。
これは東京に限った話ではないとも思う。もちろん、東京に住んでいる人全員が冷たい人間というわけではないし、東京以外の名古屋や大阪だって忙しい人はたくさんいる。
気が滅入るような話だよね。生きていくためには、冷たい人間にならなくてはいけない。それは仕方がないことなのか?
誰しも自分で望んで冷たい人間になったわけではないでしょう。どうしたらこの生きづらい社会を変えることができるのかな。

人を変えるにはまず自分から。私も冷たい人間のひとりだと認めることから始めよう。
それも家族のお墨付き。就活していた時、自分の長所短所を知るために聞いた。「私の悪いところは?」
ずばり、「自分の興味のないことは話を聞かないところ」。母のみならず妹も言っていたから間違いない。「おねーちゃんは人の話を聞かない。自分のことばかり話す」
私としては、一生懸命に相手の言葉に耳を傾けているつもりだった。でも実際は本当に薄情な人間だった。目の前にいる相手のことを「別に知らなくてもいい」と思っている。人のことを知ってもそんなの無駄だと考えている。自分とは関係ない不必要な情報だと頭の中で判断したら、もう聞く耳を持てない。
こんな人間が教員になってはいけなかったのだ。

今の職場では、相手の言おうとすることをある程度読むことができる。相手が話し出す前から、「このこと?」と先回りして聞くこともある。
来客に出すお茶?
作業服?
今日提出期限の申請書?
さっき途中だった説明の続き?
荷物が届いた?
聞いているふりだけして、相手の言葉に耳を傾けているわけではないんだ。ひたすら予測して理解しているように振る舞っているだけだ。予想外のことを言われた時は全く聞き取れない。だから聞き取ることに失敗すると、私の知らないことを喋るなと心が苛立つ。良くないことだとはわかっているのだけど。
職場では必要に迫られて情報伝達する。やりたいかそうでないかに関わらず、決められたタスクをこなせばそれでいい。目の前にいる相手のことを好きか嫌いかも関係ない。そう考えると、なんて味気ないのだろう。一日のうちの大部分をつまらないことに費やして、本当に大切なことを見失ってしまう。

どうして他人のことがどうでもよくなってしまったのかな。
元々こんなふうではなかった。こんな私にも人の話を聞けていた時代があったはずだ。
その時のことを思い出すんだ。
例えば、ロシアに留学していた時の思い出。ロシア語で言われていたことが全くわからなかったはずなのに、目を合わせて相手の言うことに耳を傾けていればなんとなく、こういうことかなと理解できた。かけられた言葉の温かさとか、どんな気持ちで相手が話してくれているのかは伝わってくるんだ。
あの時の感覚を思い出して。わからなくても不安はなかった。わからないのが当たり前だったから。言葉ではなく、気持ちが通じ合えたような気がするだけで、それでよかった。

どうしたら本来の自分を取り戻せるのだろう。
もっと心に余裕を持ちたい。コミュニケーションがうまくいかなくてもそれがなんだ。それくらいの余裕があればいいんだと思う。
幽霊は見えなくてもいいけれど、私は他人の気持ちがわかるようになりたい。100%理解できなくてもいいから、言葉の裏の気持ちを感じ取れればそれでいい。ブルースリーも言っていた。Don’t think. Feel.
聞いてもどうせわからない。それでもわかろうとする気持ちだけは失くすな。

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