歩いている間、花の話ばかりしている。
「この花の名前は?」
「ジンチョウゲ。沈むという漢字に、丁、それから花」
ああ、そうだったそうだった。うす緑の花びらを鈴なりにつけた低木からは強い香りがする。
「あ、この花はあれだよね…」
コンクリートの隙間のわずかな地面に、細かい花がかたまって咲いている。赤と薄紫の2種類。真ん中が白い。なんだったっけ。ムスカリじゃなくて、ブロッサムでもなくて…。
「アリッサム!」
「そうそう!なかなか名前が出てこない花笑」
おや、こんなところにえんどう豆が。もう豆をつけている。
「白い花だとスナップエンドウ、紫の花は絹さや」と教えてもらった。そんな見分けかたがあるんだ。なるほど。
そしてまた、道を歩きながら熱心に花を探した。
途中、ドライフラワーのお店に入る。きっと気に入るんじゃないかと思ったんだ。
天井からびっしり吊り下げられている光景には圧倒される。いくつか知っている植物を発見。名前はたしか…。ラベンダー、ミモザ、スターチス。
「畑に生えてるやつだ。こうやってドライフラワーにするんだね」
母が一々口にする花の名前を私は記憶にとどめようとする。ぼんやりとしか認識されていなかった世界を、もっとよく確かめたかった。それはうんと小さな子どもの頃の記憶とつながっている気がした。
小さい頃は花などあまり興味なかった。あじさい、ひまわり、たんぽぽ。それだけ知ってればあとは全部同じ、「花」というくくりの中で一緒くたにされた。
花が咲いたと、何がそんなに嬉しいんだろうね?子供心には全く理解しかねたものだ。
ばーちゃんの家の食卓には花が絶えたことがない。造花ではないよ。生きている花。何も咲いていない季節でさえ、つぼみのついた枝か、赤い南天の実やオレンジの鬼灯など、必ず何かが花瓶に生けられている。
祖母は庭や畑からせっせと花を切ってきて、食卓の花瓶に生ける。花の世話をするのはもっぱら祖母で、母は水替えを怠る。花瓶の中でしおれているのに気づくのはいつも私だった。
家の中に花を飾るのを好む祖母とちがって、母の心は外の草木に向けられているのかもしれない。母の花トークは、私が保育園に通っていた時にはすでに始まっていた記憶がある。
「見て見て、ユリの花から蜜が垂れてる」
「シランが咲いたよ。明日学校に持っていく?」
「水仙の香りがし始めたね。玄関のとこの、もう咲いてる」
季節によって、水仙は梅になり、ユリになり、キンモクセイになった。毎年同じやりとりを飽きもせず繰り返す。花屋でなくても、そんな家庭だったら嫌でも覚える。
大人になった今ならわかるよ。
冬が終わると桜は咲く。必ず守られる約束みたいに。今年も季節が巡ってきて、再び同じ花に出会えることを喜んでいるんだね。
今はユキヤナギが見頃だ。パンチで穴を開けた時に残る丸い形。それがユキヤナギの花びらだ。風が吹くと緑のやわらかな枝が生き物の尻尾のように揺れて、白い雪片がひらひら落ちてくる。
私は実家の庭のユキヤナギのことを考える。祖母がかいがいしく世話をしている庭。ユキヤナギの枝の下、ほうきとちりとりを持ってしゃがみこんだ祖母の姿を心に思い描くことができる。
来年も、また次の年も、その翌年も。同じように季節は巡ってきて、毎年恒例の「桜咲いた」を言い合うんだ。