「生きるために、書く」と「息をすること」

 

こんにちは。よしだじゅんやです。

ぼくのダーリンは「生きるために、書く」というテーマがあり、そのうえでメンバーには好きな文章を書いてもらっています。メンバーの方々は素敵な文章をかいてくれてありがとう。

「生きるために、書く」ってなんぞやということになります。「息をするように書く」とは違うのだよね。もし、筆を走らせていたら無意識のように書きあがったしまうような文章があるとしたら、それは特に価値がない文章です。いや、価値はあるのだけれど、僕としては「ふーん」か「へー」としか言えません。自分で書いている分にはいいんじゃないの?と感じます。けど、それをわざわざ人に提示する必要あるかと言われると、間違いなく無いのですね。息をすることを禁じることはできないけれど、わざわざ息していることを誇示するのもおかしいでしょう。

僕の研究室の教授がとても面白い人で、研究とはまったく関係なく雑談したり、議論をしたりする。だいたいがサブカルチャーかアートの話なんだけど、「アウトレイジの新作みた?」とか「君の名は分子離れの話をしているよね」とか「岡本太郎の子供の塔は子供を積分したのだと思う」「わかる、僕も季節を積分したい欲求あります」みたいな会話をしている。
で、すっごいおもしろい人だから、「先生の信仰している思想を教えてください」という質問をしました。するとこう答えたのだよね。
「特に信仰しているものはありません。その代わり、僕はこのために生きるのだな。というものをみつけました」
そんなことを言われたら、死ぬほど聞きたくなるじゃん。そして「それは何ですか」と僕は訊きます。すると先生はこう答えます。
「そうだなあ、本当に、議論にもならないくらいあたりまえのことなんです。人と議論すると、相手があきれてしまうくらいあたりまえのことなんですよ。ははは」
そういって教授は話題を変えました。

この話で大事なことは、彼が何を信仰しているかにかかわらず、彼がそれを信仰するのであれば、僕たちから議論を投げかける必要はどこにもないということです。彼が息をしていることを指摘するのは野暮だし、彼もそれを理解していて不用意に人に話さないのです。
僕たちは何が正しいかわからないものがある。そして、それを見ないように生きることができないから、しかたなく書くのだよな。それが「生きるために、書く」だと考えています。

今日も読んでくれてありがとう。「息をする」方法は二種類あると思います。それは「認めること」と「妥協をすること」です。今日はその違いについて話そうとおもったんだけど、なんだか説教くさくなるからやめてしまいました。教授の信仰の例は「認めること」ですよね。「妥協すること」これがやっかいなんだよな。諦観にあふれたひとの文章は、どこまでも苦しそうなのに、平然と息をしているように見えます。あーーーーーーーーほっとけねえ!!!!!!!!!!

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