「僕は歩くことができる。この事実は、紛れもなく重要なことだ。」
以前から膝を突き合わせて話してみたかった先輩は、進路に悩むわたしの友人にこんなことを言った。
「君だって歩くことはできるだろう?それでいいんだ。」
友人もわたしもピンとこなかった。
今日、箱根山の麓を運転していたら、この言葉をふっと思い出したのだ。
気が向いたので、この言葉についてもういちど考えることにした。
わたしは就職活動のとき、こんな質問をたくさん受けた。
「耳が不自由とのことですが、なにができないのか教えていただけませんか?」
ぶっちゃけ、わたしはこの質問が苦手だった。聞こえないことを否定されているような気持ちになる!というような野暮な理由じゃないよ。ただ、何を答えたらいいのかわからないだけなんだよね。
だってさ、正直にいって『直接的にできないこと』って「音を聴くこと」としか答えようがないんだもの。例えば、受話器を耳に当てて聞き取ることは当然できないけど、電話の内容を理解することはできる。それに、メールを送って取引先とやりとりすることでもできる。
できないことがひとつやふたつあったところで、それが直接的に仕事や人間関係に影響をきたすことはない。それはきっと障害者に限らないよね。視力がよくなければメガネをかけるし、幼い子供がいれば定時までに仕事を終わらせる。
「歩くことができる」だってそう。「耳が聞こえなくても、歩いて情報収集をすればいいじゃない!」って解釈もできるよ、ってことなんすよね。
わたしはあまりにも心が狭かった。人の「できないこと」にしか目を向けず、非難をすることも少なくなかった。自分の不甲斐なさに気が滅入る一方だ。
ということで、2019年の抱負は『尊』にしよう。自意識過剰で傲慢な自分の性格を簡単に直すことはできないけど、相手より前に出ないようにすることはできる。
できることなら、相手に尊敬の念を直接伝えたい。わたしはなぜだか、褒めることと褒められることがとても苦手で、あまり人を褒めることをしない。だからか、たまにめずらしく褒めると「皮肉ってる?」と返ってくるのだ。もっと尊敬の念を伝えることを当たり前にしたいなあ。
ここまで読んでくれたみんなありがとう、忍耐力がなかなか強いね。・・・あれ、これも皮肉っぽい?
新年は思想が強くなるんかねえ