目には見えない声だから

卒論を提出し終えたあとケーキを食べに行った。卒論と、お誕生日のお祝いに。

オムライスのあと、店員さんが持って来てくれた。チーズケーキを私に。フルーツをたっぷり挟み込んだミルクレープを彼に。
あったかい紅茶を白いカップに注ぐと、ふわっとたちのぼるアールグレイの香り。

でっかいケーキと打ち解けたおしゃべりは、卒論から解放された後の空白をいつのまにか満たしてくれたんだ。

私は卒論について聞きたがった。
つい先ほどまでの印刷の途中に読ませてもらっていた、字幕と音声違いについての研究。

‘やっぱり’みたいな意味のない言葉を普段から使っているけれど、音声から字幕になるときに消されてしまうんだね。
そう言ったら、
「意味がないわけではないよ。’やっぱり’には、文と文をつなぐ働きがある。同じように、’あー’とか’えー’みたいな言葉にも意味はあるんだよ」と返事が返ってきた。

言うのと言わないのでは、やっぱり違いがあるのだろうか。
言うのと言わないのでは、違いがあるのだろうか。

‘やっぱり’がある文とない文で、どんな違いがあるのか説明せよと言われたら、答えに窮する。微妙なニュアンス。’やっぱり’が、あってもなくても文全体の意味は変わらない。
文と文をつなげていると言われたら、確かにそんな気もする。
‘あー’とか’えー’も、あるのとないのではわずかな違いを生み出しているのだろう。

話し言葉では言われても、字幕になるときには消されてしまう。
別にあってもなくてもいい部分かもしれない。むしろ、無い方がすっきりしてわかりやすいかも。

でも削り取られる部分は、その人の癖やその時の気持ち、例えば迷いなんかを、如実に伝えている。さかなクンが「ぎょぎょー」って言わなくなったら、さかなクンではないように、話し方はその人の一部であるはずだ。
あってもなくてもさほど変わりないような部分にその人らしさは表れる。

ニュースの字幕はその部分を伝えない。
いや、例え声を全て文字に変えたとして、’あー’とか’えー’の微妙な意味は伝わるのだろうか。
文字に変えたってわずらわしいだけさ。
話し言葉と書き言葉の差。目には見えない声だからこそ、自然にその場に漂うことができるのだろう。

声の世界っておもしろい。

字幕は声の一部を削除したり、かっこをつけて補足したり、あるいは変えないままそのままの音声を文字にする。
例えばこんな変更もある。「なっちゃう」を「なる」に、「食べれる」を「食べられる」に。

多くの人は聞きながら字幕を読む。
私はテレビの音声をあまり聞いていない。
それでも声と字幕の違いにはなんとなく気づく。口の動きと字幕は違っているから。

見えない声の切れ端は意味がないわけじゃない。
テレビ画面から流れ出て、その場の空気にほんのかすかな彩りを添える。アールグレイの香りのようにね。

普段当たり前に見過ごしてしまうような、’あー’とか’えー’みたいなもの。(フィラーというらしい)
「意味がないわけじゃないよ」
と、すくい上げて研究しようとする彼の熱意はすごいと思う。さりげない優しさが好きだ。

“目には見えない声だから” への3件の返信

  1. わっかるよ!!!
    音声言語に慣れきった人たちは、ただのつなぎに使う言葉にならない声を軽くあしらいすぎだと思うの。

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