L’ultimo caffé

初めてイアンナネッリ (Simone Iannarelli) の << L’ultimo caffé >> を聴いた日は、今思い返しても不思議なほど、人生の幸運が重なり合っていた。

私はこの曲をパブロ=ガリバイの生演奏で、しかもサラ・ナサウアルコヨアトルという溜息が出るほど美しいホールで聴いた。コンサートに誘ってくれた友人2人は「ベートーベンの交響曲をやるみたいだから聴きに行こう」と言っていただけで、演目の中にオケとギターのコンチェルト(バスケス, El árbol de la vida) が組み込まれていることを知らなかった。ましてやその泥臭くも壮大な演奏の後、ガリバイが唐突にギターソロを弾き始めるなんて、私たちには知る由がなかった。

だからそれは突然、

まるで過ぎたことを打ち明ける人ような、穏やかな語り口で始まった。オケの重厚な余韻の隙間をかいくぐって、たった1本のギターで奏でられる << L’ultimo caffé >> は、私たちの稚拙な呼吸を8小節で整えた。以前大学で出会ったギタリストの方から、ガリバイの演奏は抑制の行き届いた極めて理知的なものだと聞いたことがあった。彼の演奏は確かに、懐古的と言えそうな曲の中にあっても、あらゆる時間と記憶と感情に対して「絶妙なバランス」を以って中立だった。そしてその完成された安定が、なぜか私に仏様を思わせた。暗い沼地の蓮に小さく腰掛け、静かな微笑みをたたえていた。

けれど私たちは、その規則正しい呼吸の中で、これ以上なく戸惑ってもいたと思う。日々渇望してきたはずの安らぎのようなものは、その日予想だにしない形で丸腰の私たちに一方的に、かつあまりに完全な状態で与えられた。そして与えられた瞬間から、流れ去り、奪われようとしていたのだ。前にも少し書いたけど、でも音楽ってそういうものだよね。むかし読んだ三島由紀夫の金閣寺も、なんかそんな話だった気がする。想像で思い描いた美しさに比べると酷く退屈に見える現実の金閣寺にも、輝きを与える術が2つあるんだよ。

一つは、金閣寺で音楽を奏でること。

二つは、金閣寺を燃やすこと。

 

え、なんの話だったっけ。あ、そう、でも今思い返すと、それほど長い付き合いではなかったけれど、私たち3人はとてもいい関係だった。あの演奏の後、私たちは休憩の間何も言葉なんか口にしなかったし、その後1時間にわたって轟々と降り注いだ交響曲3番の中では、何かを守るように身を寄せ合ったりすることさえできた。帰り道、1人がカフェに入ろうと提案したので、私たちはエル・ハローチョの薄いコーヒーを注文して席に着いた。

「僕たちの、最後のコーヒーを飲もう。」

そういうことを言ってしまうところが、友人を急に「メキシコ人」にした。私たちはそのどうしようもないお粗末な一言によって吹っ切れたように笑い、いつもと変わらない”最後のコーヒー”を、さして味わうことなく飲み干した。たぶんみんな、飲まれるわけにはいかなかったのだと思う。時と音楽は流れ、もうとうに去っていた。私はあの日一瞬にして、生身では耐え難いほどの幸福を手にし、そして決定的に失った。なんて大袈裟な気もするんだけど、でもたぶん、そんな感じの経験をしたんだと思う。CDに録音された<< L’ultimo caffé >>を聴くことはいつでもできる。でもあの時あの人たちと聴いたそれは、もうどこにもない。それをとても、愛しく思う。

 

 

(長い休暇ののち、ひょっとこヅラしてしれっと記すなり)

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