目に見えるものや、耳で聞けるものや、手で触れられるものがすべてだと思っている。
そこに解釈の余地などなく、あるのは理解の質だけだと思う。
基本的にさぼれるのならば、できるだけさぼって残った時間を睡眠に回したい人間なのだけれど、どうもデザインや音楽になると、まったく妥協をしたくなくなってしまう。ほんの数ピクセルの差やRGB値のわずかなズレで僕たち(もしかしたら僕だけかもしれないけど)の印象は恐ろしいほどに変ってしまう。だから、できるかぎり細部まで目を行き届かせておきたい。そんなこんなしていると肩もこるし、喉も乾く。
昨日突如時間ができてしまったので、伏見ミリオン座でボヘミアンラプソディーを観た。Another One Bites the Dustのベースラインがスタジオでふっと出てきたものだという事実を前にして驚愕していた。恐ろしい。
俺は細かい軌道修正を続けて正しさにほんのすこしづつ近づいているような気がしていたけれど、あまりにも正しいものは、きっと正しいものとして存在してしるのだ。ミケランジェロが、ダビデ像のような傑作をどのようにして彫刻することができたのかと訊かれたとき、「たやすいことです。石からダビデ像とは見えないところを削り出してしまえばいいのです」と答えた。正しさはこの世にきっとある。それを俺はみつけられるようになりたい。そして雑多なものから救いだせる人になりたい。
今日も読んでくれてありがとう。そのためにも手を動かさないといけないのだ。イラレ、けっこう好きだなあ。
夏目漱石の夢十夜でも、ミケランジェロと同じことを運慶快慶が言ってたなあ。
彫刻だけじゃなくて人間の才能も同じだと思う。
正しさってそもそも存在して、あとは自分が理解できる否かやんなあ
その人にしか見えない正しさがあるんだと思います。よしださんが納得するもの、それは一つの正しさだ
みんなに共有できないと正しいと言えないと思う