ジャズバーと薄っぺらい言葉について。

 

こんばんは、よしだじゅんやです。

昨日は久しぶりにお酒を飲んだ。お酒を飲みたかったのでなくて、久しぶりに酒を作りたくなったのだ。冷蔵庫を確認するとまだ封が空いていないウィルキンソンのソーダ水があった。そしてハーフボトルの角瓶が残っていた。僕は台所からマドラーと、ブラックニッカのマークが入ったグラスを用意して、ハイボールを作り始めた。

ウイスキーをグラスに注ぐとき、無意識にボトルの口に人差し指を添えている。注ぐ角度や量を調整するために瓶を固定しているのだ。懐かしい。僕はなかなか老舗のジャズバーでバーテンダーをしていた。当時のことを思いださないわけにはいかなかった。

僕は最近「お前の言葉は軽い」と上司に言われた。そして、同じ理由で女の子にも「あなたは他にも女の子がいるんでしょう」と言われることがある。というか多分にある。まあ、理由はわからないでもない。お前は安易に言葉を選びすぎていて責任感がないということじゃないかな。
僕は言葉というものをとても大事にしている反面、人との会話において、なるべく軽く、かつ根拠のない信頼を相手に抱きたいと思っている。そのきっかけは、おそらくジャズバーで働いていたときにあるのではないかと思うのだ。

僕の働いていた店は、50年以上も続く、ジャズバーの中では老舗である。先輩に「お前はしらないと思うが、結構ネームバリューがあるんだろうぜ」と言われたので、試しに東京のバーで名前を出してみたとき、ツーランクくらいもてなしの質が上がったことがある。なにが言いたいかというと、わりに知名度があるということと、お客さんがそれなりにプライドをもって訪れているということだ。

お店にはつねに150本くらいのキープボトルがある。例えば、常連の山田さんがふらっと訪れたとしよう。すると僕はまず、山田さんはステージから近い席が好きだったなと思い出して案内し、「いつものもので良いですか?」と訊く。そして棚から21番のマッカランを取り出し、ウイスキーオンザロックをダブルで作り、チェイサーにトニックにフレッシュライムを添えたものを用意する。これがスムーズに行われないと、山田さんはサービスの質が下がったと判断をする。そういうお客が多いのだ。
僕は知らないおっさんの好みにまったく興味を持てなかったし、それを僕がしらないことに何も負い目を感じなかった。あなたがそれが好きなら僕にまず教えてくれよというスタンスだったのだ。けれど、それでうまくいくはずはなく、仕方がないので先輩の接客を観察していた。

彼らはお客の好みを覚えて満足させるプロだった。ある日、僕がホールで注文をとってきて先輩のジョニオさんに「レッドアイです」と告げると、「6番の方か?」と確認した。そうだと答えると、ジョニオさんはトマトジュースにビールを注いだ後に、黒コショウをふんだんに振りかけ始めた。いやなにしてんすか!と驚いていると、いいから持って行けと言う。ドキドキしながらレッドアイをテーブルに置くと、お客は大笑いをして厨房の中のジョニオさんに視線を送った、ジョニオさんは、ニヤッと笑うとまた手元に視線を戻した。あとから話を聞くと、以前カウンターで話をした時に「レッドアイにブラックペッパーをかけたものが好きだ」と彼が話したらしい。ジョニオさんはちゃんと客の好みを把握し、正しいタイミングで提供するのだ。その技術に僕は惚れ込んでしまった。

ただ、ぼくには大きな違和感があった。ジョニオさんは常連さんが帰った後に、必ずと言っていいほど僕に彼らの悪口を言うのだ。「あの女、たいして金を使わないくせに無駄に話しかけやがって」とかさっきまで和やかに話していたお客の愚痴を言うのである。その違和感は徐々に増して言って僕は我慢ができなくなってしまった。ある日、深夜の3時に店を閉めると、僕らは軽くバーでお酒を飲み(店でしこたま飲んでるんだけど)締めのうどん屋に入った。その時隣できつねうどんをすすっているジョニオさんに聞いたのだ。

「なんでジョニオさんは客の悪口を言うんですか」
「なにか問題はあるか?」
「いや、だって普段和気あいあいと常連さんと話をしているじゃないですか。少なくとも、常連さんは悲しむと思います」
「いいか、純也。あいつらはなんで店に飲みにくると思う」
「ジョニオさんと話したいからじゃないですか」
「その通りだ、けどな、俺も客も互いに興味なんてまったくないんだ。というのも、お客さんは社会的なしがらみから離れて、なにも考えたくないんだよ。はなから俺の考えなんか気にしていないのさ。だから俺は彼らの話にのって楽しませてやってるんだよ」
「ジョニオさんの言っていることはわかるけれど、そうだとしたら悲しい関係だと思います」

という会話をした。僕があのバーで学んだことは、この世の中には、「中身がある」のではなく「ストレスがない」ことが大切な会話が存在するということと、案外それがうまくいくということだった。
自分の感情をはなから捨てることで、記憶の容量をすべてお客さんの情報に使うことができるのだろう。それはとても効率が良い。
くわえて、行動経済学(ダニエルカーネマン)的に言うと、よく考えないということは、人にとって快適なのである。バーはまさにそれを体現した空間だった。

これらの事実を踏まえて、僕はそのような会話が存在することを認めようと思った。会話の良し悪しはなくて、きっと適材適所なのだ。そう納得すると早くて、僕はバーで、ひたすら相手の言葉を引き出すための技術をみにつけて言った。相手にはストレスを与えず、けれど良い方向に誘導をする。事実、僕はずいぶん薄っぺらい言葉を使い続けていたと思う。何度も言うが、良い悪いではないのだ。

ということで、僕が「あ、こいつ他の女にも同じこと言ってんな」と思わせる原因は、これらの会話を行っているからだと思う。「内容よりも速度」「理屈ではなく無償の愛や信頼」が必要だと思うと、僕は意図的にこのような言葉を使う。ほんとかよ、と疑い深い人は一緒に飲みに行こう。じっくり話をすればわかると思う。というかこんな文章を書いている時点でずいぶん神経質な野郎だと思わない?俺なら思うね笑

今日も読んでくれてありがとう。今日はマイヤーズコークを作りたいな。

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