昔作った自画像のお話。

 

こんにちは、よしだじゅんやです。

先週久しぶりに、地元の文化センターに脚を運ぶと「ジュニア油絵展」という展示会が開催されていた。中学生のときの思い出や高校生のころの思い出を振り返ると、なんだか懐かしくて覗いてみることにした。

僕は小学生、中学生と美術の時間が大好きだった。誰よりも集中して絵を描いたし彫刻を作った。その流れで高校に入ると美術部にはいることにした、合唱部とハンドボール部からのお誘いを断って決めた。

今思うと、小学生から高校にかけて、僕のまわりに存在した芸術活動は、非常に特殊な環境だったと思う。というのも、日本人の悪いところでもあるが「子供のつくった作品」とはなから線引きしたうえで評価が与えられる環境だった。つまり、はなから地方の審査員は子供たちに、技術は問わず、そこに表されたコンセプトやアイデア源を評価するきらいがあった。そして、生徒側も私たちはコンセプト合戦をしているの。という自覚が少なからずあり、普通は基礎の鍛錬として行われるデッサンをすっとばして、クリエイティビティを発揮することを志した。これは大人になってから通用しない環境だ。人は企画書を作るだけでは食っていけない、それを世に送り出して人の目に触れたものが勝つ。そう考えると、僕が参加していた芸術活動や団体は「平成企画書合戦」というのが正しいだろう。

それは、良いことでも、悪いことでもある。芸術家を輩出したいのであれば、まずは技術的な礎を作らないと話にならない。けれど、子供の想像力を発展させることが目的ならば、多くの場合成功していると思う。現に僕は、小学生から高校生まで美術を履修して学んだことは、「人をあっと言わせる企画書の作り方」だったし、「自分の素直な感情を表現することの尊さ」だったと思う。技術はなかったが、恥ずかしげもなく自分の性癖を暴露する点では非常に優秀な生徒だったんだろうね。

中学生の時に書いた「自画像」を思い出す。美術の先生が自画像を描きなさい。と言ってクラスの生徒に一枚ずつ画用紙を配った。そのとき、真っ先に僕がしたことは、もう二枚の画用紙を先生からもらうことだった。一枚には僕が絶叫している自画像をかき、もう一枚にはテーブルに並べられたリンゴの絵を描いた。そして、与えられた画用紙にアクリル絵の具をそのまま塗りたくっていった(中学生の美術はアクリルセットを買わされて、どれくらいの水で絵の具を薄めるか教えられ、いかに写実的に対象物を描くかを教えられた。が、いい加減辟易していた。限りなく透度の低い絵の具を盛るようにしてキャンバスにおいて、偶然の色味を楽しんだり、抽象的な絵が描きたかった。なので、ありったけの絵の具を用意してほとんど水を加えずに、大ぶりな筆で配置し、パレットもどきで引き延ばしたりエッジをつけていった。ある時美術の先生が僕のもとにやってきて「君のやりたいことは尊重するが、美術の教師として君の作品を正しく評価することはできない」と言った。つまり「成績がつけづらいから普通に自画像書いて。お願い」ということだった)下地が完成すると、自画像とリンゴの絵をずたずたに引き裂いていった。細かいものもあれば大きなものもあった。それをミックスして赤黒くうねった下地に配置していった。半分くらいは意図的に、半分はランダムで投げ捨てるように配置した。出来上がった自画像の題名は「おなかがへった」だった。これに関しては僕も意味がわからない。先生は僕にひどい成績をつけたが、生徒のなかではそこそこ評判があり、市のよくわからないコンクールでかなり良い評価をされた。完全に「平成企画合戦賞」だった。

当時の僕の好みは、確実に今の僕にも引き継がれていると思う。僕は平面作品を立体に変容させる技術やそのアイデアに異様に執着するし、胸が踊るのだ。版画を観るときも空刷りという技法が使われていないか確認するし、lucio fontanaの「期待」シリーズはいつ見てもドキドキする。事実デスクトップをみる度にドキドキしている。「非写実的な作品」が好きだ。半分悪口になりそうだからこれは説明しないでおこう。

それに加えて、「技術の前に欲求があり、アイデアがある作品」が好きだ。これはコンセプチュアルアートが大好き!と言っているのではない。もしかすとそれは作品でもないのかもしれない。僕は職業としての芸術家が、アイデアを創出するために下絵を書き連ねる姿が好きだし、日常のひらめきを書き留めるように描かれる簡単なスケッチが好きだ。そこにはその人の「純度の高い素直さ」が描かれているし、それはその人自身を表していると思うからだ。完成されてしまった作品に対して多くの作者はあれこれ口を出したり、説明を加えない。それらは完全に自分の身体から離れてしまったものだからだ。けれど、そこに至った思考の過程を僕たちは下絵やメモから知ることができる。僕はそれらに胸が躍るし、人と共有できるのは作品ではなく実はそこなんじゃないかな。などと考えている。

てなことで、クリエイターさんの日常的なスケッチみたいっすね。「生きるために、描く」です。作品によって人々の価値観を塗り替えるのならば、スケッチはあなた自身を好きになる手段になると思う。どうかなあ。

今日も読んでくれてありがとう。そうだ途中まで「ジュニア油絵展」の話をするために書いてたんだ。また明日にでも書こうかな。

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