僕は笑顔が怖い。その1

笑顔にはコストがあると思う。

ぐっと口角を引き上げて、目元を下げる。そして元に戻ろうとする顔を維持する。筋トレと同じだ。筋肉の収縮に負荷をかけることでトレーニングをするのだ。スクワットを無限に繰り返すことができないように、おそらく、笑顔もずっと維持することはできないと思う。笑顔にはコストがかかり、もともと人は無表情なのだと思う。
だから、僕は人に笑顔を向けられることが怖い。無表情でいいものを、わざわざ笑顔を僕に作るのだから、そこには僕には理解しきれない思惑が潜んでいそうだ。

人の笑顔をみると「僕なんかにコストを消費をしていいんですか」と心配になる。けれど、僕も良い大人なので、直接そう言うことはない。せめて、余計な心配をすまいと、机の傷や、グラスの水滴をじっと眺めていたりする。

笑顔の怖さの一つに、「人から与えられる」怖さがある。こんなことをいうとあれだけど、僕は高校生の中盤くらいから自分は生きていていい存在なのかと何度も自分に問うていた。親は僕に食べ物を与えてくれて、寝床を与えてくれる。友人は、部活にいかずにひとり教室でぼんやりしている僕に好意を抱いてくれて、素敵な言葉を与えてくれた。それに対して、僕は彼らに何を与えているのだろうと恐怖に似た感情を覚えたのだ。太宰治マニア(僕は太宰治の墓に定期的に足を運ぶ程度に彼のことが好きだ)がまたなにか言っていると言われたらそれまでだけれど、僕にとってはそれらはかなり大ごとだった。大葉要蔵は「生きるための道化」を繰り返した。僕も彼に共感せざるを得なかった。無表情のひとがいると何か気の利いたことを話さなきゃ。と思うし、笑顔を向けられると、僕もそれ相応の何かを与えなくてはいけないと思う。それは現在も何も変わりない。

笑顔のもう一つの怖さに、その多様性が挙げられる。共通の認識だと思うけれど、笑顔には恐ろしいほどのパターンがある。僕は歳をとるたびに、周りの人間が使用する笑顔の種類が増えていくことに驚きだった。僕はだんだんわかってきた。笑顔は道路表札のようなものなのだ。「お待たせしてすみません」「お引き取り願います」と顔にそのまま書いたような笑顔がこの世には存在し、ビジネスライクの場では、たてまえとして、それらを使い分ける傾向にある。僕が恐れをいだく笑顔はそれらにあたる。
村上春樹は「優秀なコンシェルジュは30の笑顔を使い分ける」と言ったが、これほど腑に落ちる表現はなかった。僕の知る笑顔はよくて「面白い」「興味深い」などのベーシックなものなので、たまに意図を汲み取れないことがある。怖い。本当は「すみません、あなたが今作られた笑顔の意味をお聞きしていいですか」と尋ねたいが、いい大人なのでそんなことは聞くことはできない。

以前ななこちゃんと食事をした時に、コーヒーをのみながら、平然を装って聞いた。「ななこちゃんは何種類の笑顔を持っていて、今の笑顔はパターン何番ですか」 おそらく多くの人はそこで怪訝そうな顔をするだろうし、踵を返して逃げ去るかもしれないけれど、ななこちゃんはその種類について教えてくれた。僕はその答えにほっと胸をなでおろした。
そう言えば、ななこちゃんに「よしだは整形手術をした人間みたいな笑顔をする」と言われた。話を聞くと、整形をした人の顔は神経が通っていないために筋肉を上手く動かすことができないらしい。「よしだの笑顔はこう」とななこちゃんが書いた僕の似顔絵は、まりもっこりの笑顔にそっくりだった。

“僕は笑顔が怖い。その1” への3件の返信

  1. 職場で笑わなさすぎてほぼ筋肉使ってないから、素で楽しくなってたくさんヘラヘラにやにやケラケラすると、即日筋肉痛になる。この筋肉痛は悪くないよ。

  2. わたしは無表情でいることのほうがストレスに感じることのほうが多いかなあ。無表情でいることでコストを払わなくて済むことが少ない。

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