評価されるのは、コミュ力。
多くの人に、自分の言いたいことをきちんと伝えられる。それだけでなく相手の言うことを理解しようとすること。社会に出ればそういう能力が必要とされるみたいだ。
コミュニケーションって多ければ多いほどいいことなの?
たくさん話せば話すほどいいコミュニケーションができるのかというと、そうではないと思うんだ。
たくさん話していると時間は飛ぶように過ぎていく。話しすぎるのも疲れちゃう。
また、相手が多弁である時も、圧倒されてうまく話せなくなってしまう。
私は先生と話すのが苦手だ。と言っても話したい気持ちがないわけではないよ。
本当はもっと先生と話したいと思うのに。もっと聞いてもらいたいことがあったはずなのに。思いとは裏腹に言葉のひとつも浮かんでこない。
そんな時には無理に話す必要はない。
自分と相手の間にただ時間がゆったりと流れていく。次の言葉を見つけるための時間。
そういうのも悪くないかなぁなんて、肩の力を抜けるようになったのは最近のことだ。
コミュニケーションなんて少なくていい。
そんな考えを持ってしまうのは、子どものころ、私にはコミュニケーションの経験が足りなかったせいなのか。
中学生の頃、学校で一言もしゃべらない日々を過ごしていた。家に帰っても家族と話すこと話すことなんてなかった。
私は父に言われたことがわからなくて、わかったふりをしてしまう。わかってないのに「わかった」というのはやめろと怒られた。
だからもう父と話すのは嫌だと思った。
だれとも話したくなくてひたすら本を読んだ。
文章の世界では遠慮はいらない。相手に合わせることを気にしないでよかった。
今日私は、初対面のろうの方とお話しした。鹿児島の霧島や桜島、屋久島、温泉、いぶすきがおすすめだよと教えてもらった。
鹿児島いいなぁ。行ってみたくなったよ。
その後で、彼女を知る人からこう言われた。
「彼女とのコミュニケーションがうまくできているように思えたのは、それは彼女があなたに合わせてくれていたからだ」
それを聞いてどきっとした。
わからないことをわかったふりをしながら、そのまま大人になった彼女は、たとえ手話であっても相手の言葉を読み取るのに苦労する。
お互いにわかり合えていると思っていたけどそれは勝手な幻想でしかなかった。ただ、一方的にコミュニケーションを押し付けていただけだったのかな。
わからない時に「わからない」と言えない苦しさを私はわかりすぎるほど知っている。
そして今、「わからない」と言えない状況を作り出してしまっていたと気づかされて、申し訳ない気持ちだ。
会話は時に、やっかいで疲れるものだ。
でもまた新しい相手を見つけては話し始めてしまうんだろうな。お互いのことを理解し合える楽しさを知ってしまったから。
言葉なんて上手に言えなくてもいい。それよりも相手に合わせるのを上手くなりたい。
それはわかったふりをすることではなくて、わかったふりをしなくてもいい関係を築くことだ。
会話は1人でするものではなくて複数でするものであると意識してから幾分か気持ちが楽になりました。
「沈黙の時にその間を埋めるために話してしまうのは相手に気を遣っているのではなく、自分が苦しいからだ」って私の好きな綿矢りささんの本で読んだときはどきっとした。沈黙の時も同じ時間を共有している、これもコミュニケーションなんだなと気が付いたのは、無口な元彼女のおかげ。
1人でいる時も自分と深く対話している。これも、コミュニケーション。自分とのコミュニケーションがうまくできている人は面白い人が多いなと思うことが多い。
コミュニケーションにも色々な種類があるなあとこれ読んで思いました。
コミュニケーション
僕って面白いですか?
面白いです!
コメントありがとうございます。
自分との対話も必要ですよね。
ダーリンを書いている時や一人で歩いている時に、自分と向き合えるような気がします。
誰かと共有する沈黙も、もっと楽しめるようになりたいなぁ。