ショスタコーヴィチ

USSRからこんばんは笑、わおんです。先日まで、4泊5日でオーケストラの合宿がありました。定期演奏会に向けて曲を詰めるための。青木ヶ原樹海の側にある山奥のホテルで、徒歩25分のところにあるコンビニのような何か以外には何もない。それだけでも気が滅入りそうなのに、今年の選曲はショスタコーヴィッチの交響曲10番という曲。バッチバチのソ連時代の曲で、歌や踊りとは程遠く、戦争と狂気をそのままに音に表したみたいな作られ方で、演奏するのもしんどいし聴くのも疲れるのでは、っていう曲。

https://youtu.be/Z7pqjSPpjTw

そんな曲を朝から晩まで、1週間近く、同じ飯を食って同じスケジュールで同じ服を着て演奏していたからか、実際には、ずっっと現代の日本にいるのですが、気持ちは1950年あたりのソ連から逃れられなくなっている。私だけではなく、オーケストラ全体があの時代のあの場所の人間になっています、私は帰ってきてからも夢でうなされるし入り込みすぎてちょっと辛いので文章に書いて冷静になってみたいと思います。よければ読んで、、。

合奏中、表現について指揮者からたびたび指示を受けて、方向性を一つにまとめていくんだけど、今年の指示はドン引きしちゃうくらいエグい。

・そこは頭に銃を突きつけられてて笑顔を絶やしたら殺されると思って吹いて。

・川べりに人を5人並べてナタで一直線に頭を落とすように。

・子供の玩具の裏が血みどろになっているのを見た気持ちで。

最初のころはドン引きしていた私達だったけど、だんだんと足並みが揃ってくると彼のえげつない表現にもすかさずハイと返事をしていたし、その比喩に違和感も抱かないという感じになった。

私は毎回、目眩と胸焼けで死にそうになりながらみんなと足並みを揃えていて、だけどその内同じ歩幅で血の海を行進していた。

夜中は毎日宴会をしていて、その時にマエストロと話す機会があった。私は酔った勢いで彼に尋ねてみた。この曲の楽しさは何か、と。彼はこう言った。「この曲を、もう少し年代の高い団体が演奏したなら、そういう時代もあったのだという演奏しかできないだろう。それはそれで、楽しめると思う。時代考察や、昔語という意味合いの音楽として。しかし、若い君たちがこの曲を演奏するのは全く趣旨が違ってくる。若い子たちの熱量と没入の仕方でこの曲を演奏する時、聴く人を慄かせるような、完全にその時代の再現をすることができるんだよ。時代の再現、人間の狂気の表現はショスタコのやりたかったことそのものであるし、この曲を聴く人全員の心に僕たちの演奏を傷のように深く刻み込める、ちょっと楽しくない?」

なるほど確かに。狂気の表現なら、狂気そのものに染まっていく私達は指揮者の意図を従順に受け取って上達していってると思う。聴く人をその渦に取り入れて、足並みを揃えない者を殺すというふうな演奏。そのための没入、20代しかいないオケで、皆が心を削りながら演奏することに私は苦痛を感じていたけど、聴衆の心に深く残る演奏をできるかもしれないと思うと、心の疲弊と狂気への慣れは、楽しいことのように思えてきた。たかだか一曲の演奏に、私たちは命をかけ始めている。

家に帰ってきて、いつも聴いていたプロのCDを復習で聞いてみた。技術はもちろん私達が勝てるはずないけれど、物足りなさを感じた。狂気が足りない。怖すぎて笑い声が出てしまうような演奏ではないのだ。

80人が揃って一曲のあいだ狂気の表現をする。快楽とか温和という感情ではなく、恐怖や不快感への直接的な訴えかけをする。代償大きい気がしなくはないけど、聴衆と奏者が狂気を通して一つになるのを見てみたい。

感情に訴えかける演奏として、私は人生で1.2を争う演奏会になるのではないかと思っています。はちゃめちゃにしんどいけど。悪趣味なお口直しもご用意しておりますので、もしご興味ありましたら是非、、、。

グロデスクな疲れそのままに書いてしまったけど、わおん自身は残り少ない春休み、お花見とか買い物とかして、早急にソ連から帰ってきたい気持ちです。

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