人は出会い方がすべて

人は出会い方がすべてだと思うのだ。すべて、なんて言葉を使うのはドキドキしてしまうけれど、今日の話の主題なのでしかたない。

8月8日はよしだじゅんやの誕生日でした。特に予定もなく一人でレモンケーキを食べたりシーシャを吸ってリラックスをしていた。何か特別な日というものを設けるというよりは毎日自分らしく生活していたい性分なので、誕生日というのはなんだか苦手だったりする。

 

昨夜は思わぬ人物からLINEで連絡があった。小学生の同級生の武君からだった。僕たちはお互いにどこで生活をしているか、何で生計をたてて生活をしているか知らない。ただ、「小学生のころの同級生」というつながりだけで今も年に一度くらい、何かのきっかけがあれば連絡をとりあっている。

 

時間や回数、などととう尺度で僕と武の関係をはかると、それはもう赤の他人のようなものだ。けれど、僕は彼ぐらい親密な関係の人間はいないだろうと思っているし、きっと彼もそう思っている。僕も彼も、時間や回数というという尺度ではかればもっと親密な関係の人間がいるでしょう。これはどういうことなのだろうと僕はよく考えるのだ。

 

その答えが、「人は出会い方がすべて」ということになる。僕たちは、お互い多感な時期でかつ、ずいぶん無責任に生活をすることが許される時期に出会った。将来についてや、その日にかかる生活費や、社会の立ち位置を考える必要なんてまったくなかった。

彼は小学生のころからアパートに一人で生活をしていた。簡単に言えばかぎっ子というやつで、もう少しこみいった話をすると、ひねくれた父親につき合わされた子供だった。僕はよく家の車庫から抜け出して、深夜彼の家に遊びにいったものだ。そして二人でthe pillowsの「ターミナル・ヘブンズ・ロック」を口ずさみながら猫とくつろいだりしていた。

 

「この人とは違うところで出会いたかった」と思うことはありませんか?ラブストーリーで目にする手あかのついたセリフですが、僕はよく心のなかでそう唱えてみることがあります。職場の同僚や後輩たちがそうです。少しでもビジネスライクな出会いをすると、人と人の間にうっすらと壁があるのがわかるし、足元を見るとある特定のフィールドに立たされていることに気がつく。それを言葉の節々に感じ取るたびに、僕たちは友達にはなれないのだな。と悲しくなってしまう。

「機嫌をそこなわれたら仕事に差し支えるな」と考えてスターバックスでコーヒーをおごったりするし、「ここを差別化するとより評価されそうだ」と他人とビジネス的に比較をしている。それは、もう彼ならざる彼とつきあっているようなものだよねえ。

 

武君の話にもどそう。彼は一言「Felíz compreaños, amigo」と送ってきた。スペイン語で誕生日おめでとうという常套句である。彼はずいぶんひねくれた人間なので、というかひねくれた父親のもとで育ったので、誕生日おめでというなんて使い古された言葉をわざわざ送ることをためらったのだろう。たしか彼はオペラの座長をしていたことがあったのだと思い出した。

その後の僕たちの会話はありきたりなものだった。お互いのでかたを伺いながら、慎重に言葉を選んでいる。その息遣いがよく感じられた。僕たちはずいぶん多くの言葉を用いたが、結局のところ「俺とお前は友達だ」という事実を確認しあい、あたためなおしたいだけなのだ。そのことを僕たちは十分承知している。欲を言えば、またあのピースフルな部屋で猫を抱きながら、いまだに古臭いロックを歌い続ける売れないバンドに耳を傾けたいと願っている。

 

今日も読んでくれてありがとう。久しぶりに文章を書くとうまく調子がつかめない。短距離走を長距離の気持ちで挑んでしまったような感覚がある。まあ、なんとでもなるさ。

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