山登りは再び

recur 再発する
昨日覚えた英単語が脳内にちらついた。

I’m afraid that the sprain will recur on my ankle.

左足首がうずき始めていた。山頂から折り返した地点である。1時間半、今まで登ってきた道のりを下山するというつとめがまだ残っていた。
ここで足を滑らせたら一巻の終わりのような気がする。私は慎重に歩を進めていく。

登山道はいくつかアップダウンを繰り返す。傾斜の急な山道を索具で整備した長い長い階段を下り切ったあと、上り坂を上っていくと、鉄塔と、足を一本なくしてひっくり返ったベンチが見えてきた。ここでさっきおじちゃんに地図をもらった。
「日本人じゃないの?」とおじちゃんに聞かれた。
日本人です、と私は答える。そんなにおかしな発音で日本語をしゃべっているのだろうか。自信がなくなる。
でもそのおじちゃんは親切に、私に地図をくださった。

それからまた、道は下る。来るときは杖をつきながら歩いていく年配の方々や険しい道をものともせずにジョギングしていく女の子を見かけたけれど、帰りは誰ともすれ違わない。
黙々と歩き続ける。一歩一歩確かめるように、落ち葉や土砂ですべる岩場にそっと左足をおろす。

もう一つ、峠を越えた。空と溶け合うように、青くけぶる麓の景色。
バイカル湖とは比べ物にならないくらいちっぽけな浜名湖を見下ろす。

風が気持ちいい。
Tシャツの袖をまくろうとして、はっと気づく。2年前、バイカル湖の目の前の山を登った時と同じTシャツに同じズボンであることに。証拠の写真だってあるよ。ほらこれだ
べつに山登り用の服というわけではなく、朝、畑の芋ほりに出かけた時にタンスから掴み取った服、そのままの格好であったのだけど。なんて偶然なんだ。

誰かが通りかかったら写真を撮ってもらうようにお願いできたのに、あいにく人の気はさっぱり絶えている。
静寂の中、遥か遠くのロシアを想った。
透き通った湖面がきらめいているのを。ブルーの目をした40歳のガイドさんが、今もお客さんを連れて山登りツアーをしているのを。いや、今はもう42歳になるのだろうか。

ともすれば傾斜に従って駆け足になりそうになるのをセーブしつつ、やっとこさ湿原までたどり着いた。人影を見てなんだかほっとする。
木道に足を乗せるとガクガクになった膝がふらついた。貴重な野草をつぶしてしまうところだったよ、あぶな。

バス停には先客がいた。サイズを間違ったかのようなぶかぶかのジーパンに、黒の重そうなリュックサックを背負い、靴はしっかりとした登山靴。メガネをかけている。山のおじちゃんはみんな同じに見えるけど、さっき地図をくれたのとは別のおじちゃんだ。
隣に並ぶと、なにか話しかけられたけどよく聞こえない。ちょうどそのタイミングにバスがやってきて声をかき消していく。
「豊橋の方ですか?」と私は尋ねた。
豊橋ではない街の名前をおじちゃんは答える。バスの騒音のせいで聞き間違えたのだろうか。私は耳を疑う。
でももう一度聞き直しても、私と同じ街だった。
そのまま一緒に帰る流れとなり、途中でお弁当を買ってもらっちゃった。

なんだか、буузаを思い出すなぁ。バイカルで山登りをしたあの日、初対面のガイドさんがカフェでおごってくれた小龍包みたいな食べ物。

同じ服を着て、
山の頂上から湖を見下ろして、
初めて会ったおじちゃんにおごってもらう。
まるであの日の再現みたい。

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