僕が芝生に求めることと、芝生の目的について。

こんにちは。よしだじゅんやです。お久しぶりです。僕は元気です。毎日お弁当を持って芝生にいき、大好きな曲を聴きながらご飯を食べる生活を送っています。そして、どうしたらモテるんだろう、と芝生の上で考えて静かに涙を流す日々が繰り返されています。

芝生の良いところは「僕をほっといてくれ」と無言のうちに人に伝えることができるところです。なにか特別な理由がない限り、僕たちは芝生に寝そべる人に声をかけたりしない。彼らは一時的に何かに集中したり、あるいは解放しているのだから。芝生は誰にとっても開かれた、個人的な場所。と言えます。

 

名古屋大学の芝生は他の芝生と比べてユニークな点が二つある。(世の中にユニークな点が一つでもある芝生はいくつあるんだろう)一つは、片側二車線の道路に面していること。もう一つは、芝生に方向があることだ。

思い返してみると、道路に面した芝生というのは、僕の記憶の中では名古屋大学の芝生くらいしか思い当たらない。芝生は動物園や公園の中のある区画に存在して、自由に使ってくれと開放されていたりする。つまり、ある領域のなかにあるので、外部と接しているケースが少ない。名古屋大学の芝生は寝転がっているとビュンビュン視界の端から端へ車が横切っていく、これは非常にユニークな特徴だ。

芝生に方向があるということはどういうことだろう?僕もしかたなくそう表現した。何かしら違和感のある表現だが、そう説明するしかない。名古屋大学の芝生には緩やかな傾斜がある。さっき言及した道路に向かって、芝生が傾いているのだ。このわずかな傾きが、名古屋大学の芝生を、唯一の芝生にしている。

僕たちの知っている一般的な芝生はフラットなものが多い。簡単に言うと、フラットな芝生は自由でオープンだ。サッカーをしたりバトミントンをすることができる。どの方向を正面にしてご飯をたべてもいい。どの方向に足を投げ出して寝転がっても構わない。

傾斜のある芝生は、それらがことごとく制限されている。サッカーをしようものなら道路に吸い寄せられるようにボールは坂を転がっていくだろうし、足を投げ出す方向を間違えれば、寝転がっている間に頭に血が上って吐き気をもよおすだろう。つまり、名古屋大学の芝生は、ある種の行動が制限された、半オープンな空間なのだ。

じゃあ、他の芝生のほうがよくない?と思うかもしれない。確かに、あなたがサッカーをしたいのならば一般的な芝生に遊びに行くべきだと思う。ここは考え方をすこし改めるべきなのだ。僕たちは行動を制限されているのではなく、何かの目的のためにルールを求めれているのだと。例えば、僕たちは図書館の中で大きな声をだしてはいけない。それを不自由だと感じるかもしれない。しかし、図書館に訪れる人々の目的は読書に集中することである。静かな環境が読書に必要不可欠なのだ。

芝生なんかに目的があると言うのか、とあなたは疑問に思う。目的を背負った芝生というのは確かに珍しい。だから僕も断言するのに勇気がいるのだけれど、名古屋大学の芝生には確かに目的がある。僕が名古屋大学の芝生に足を運ぶ理由はまさにそれなのだ。

名古屋大学の芝生の目的は、自己に集中することだ。外部から切り離された空間の中で、比較的に僕は僕として存在していることを、この芝生の上で感じることができる。

芝生には傾斜があり、道路に面している。僕たちは強制的に道路に対峙して芝生に腰をおろすことになる。一般的な芝生が持つオープンで自由な空間に対して、目の前に広がる光景は、非常に社会的である。信号の合図とともに車は走りだし、信号の合図とともに歩行者は歩き出す。整備された区間の上にシステムがあり、円滑に人々が行き来している。社会性のある空間の中では人も車もほとんど同質に感じられる。

僕は高度経済社会に対してアンチテーゼを唱えているわけではない。僕が普段身を置いている社会の形をまざまざと見せつけられている、ということを強調したいだけだ。芝生に腰掛けたものは社会的な光景を半強制的に見させられる。まるで「時計仕掛けのオレンジ」のアレックスが、映画館の席に拘束され、暴力的な映像を延々と見せられたみたいに。は、言いすぎか。少なからず、僕たちの目の前にはそういった光景が広がっている。その光景を目にして、僕は怒るわけでも悲しくなるわけではなく、僕は僕自身なんだと思う。

大丈夫、僕は、僕自身だ。

そう自分に言い聞かせて、僕は自分の世界に没入していく。規則的な音楽や、度数の高い酒や、たまに吹く夜風のおかげで、芝生にねころんでしばらくすると、かなり深くまで意識が沈んでいることにきがつく。

もちろん、図書館と芝生は厳密にいえば性質が異なる。図書館は本を読むことを目的に作られた施設だが、芝生は何かしらの目的のために作られものではない。芝生本来の特性と、地形的な特徴が相まって、後からそのような目的を背負ってしまっただけだ。物事はなるようにしかならないのだ。

大丈夫、なるようにしかならない。

そう思わされるのも、この芝生の良いところの一つである。

 

この芝生を訪れる人や、調べ物している人に、この芝生の(一般的な)目的を説明しようものなら、うんと我慢して「個々に集中すること」ということになるだろう。これ以上のメタフォリックな説明は控えようと思う。こういう説明的で個人的な話をする男はモテないと僕は知っているからだ。

 

今日も読んでくれてありがとう。ご存知のとおり、僕はモテない文章を書くのが好きだ。明日も芝生でご飯を食べ、静かに涙を流している。

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