うっすら

雪の積もったメタセコイアの枝に
ノスリが1羽とまっている。
ノスリはレモン色の目で白い地面をにらみながら
食べ物を探していた。日は暮れていてうさぎもりすも
いない。ノスリはおなかを空かせていた。
翼をぴったりたたんで今日も冷たい風に耐えている。

卒業証書やアルバムがしまってある本棚から、絵本が出てきた。高校の美術の授業で作った絵本だ。色鉛筆で塗られた絵は幻みたいにうすい色をしている。裏表紙を見たらクラスと名前が書いてあった。1年生の時に描いたものらしい。

私の感性を、当時の美術の先生は褒めてくれた。それ以前にも、中学校の先生が毎日の日誌にコメントしてくれたことがある。「あなたの感性、好きですよ」って。
私はとても嬉しかったけれど、なにがいいのか自分ではよくわからなかった。自分に自信がなかった。

感性って何だろう。
それは年を経るにつれて変わるのではないかと思う。今と昔で私のピアノの音は違ってしまった。もし今、色鉛筆で絵を塗るとしても、あの絵本みたいに、消えてしまいそうに儚い色彩は出せない。文章もきっと、変わらないままではいられない。

たった4ページの絵本なのに、中学を卒業してまだ間もない自分の姿がそこに浮かび上がってくる。鳥になりたかった。息苦しい毎日から自由になりたかった。
同時に、今の自分の片鱗がちゃんとそこに隠れている。紛れもない、私の言葉だ、って感じがする。

自信がなかったのは、自分には何の価値もありはしないんだという思い込みを持っていたせいだ。少しずつ克服できただろうか。
ずっと自分を変えたいと思っていた。価値のある人間になりたかった。
今は、少しは自分を好きになれた気がする。あの絵本を描いた自分のことを、悪くはないなと思うし、なんの価値もないなんて、そんなことはないよと言える。

自分では自分のことがよく見えなくなる。本当の自分って何だろう、と時々よくわからなくなる。私には見えていなかった私を、美術の先生や中学の担任の先生は見つめてくれていた。自分でも知らないでいた私の心を、人は私に突きつける。私には多くのものが見えていない。一方で、私には私の世界の感じ方がある。

今の自分にしか書けない文章を書くしかないんだよ。素直だった私はそのうちひねくれてくるかもしれないし、もっとさらに正直に、今まで気づかないふりをしてきた嫌いな自分のことも表現できるようになるかもしれない。
どうなるにせよ、それでいいんだと納得できる、自分でいたい。

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