よしださんは、よしださんの記憶と経験から言葉を引き出して、私の前に置いてくれた。私に本を渡してくれた。
反応の薄い私に、それでも話し続けてくれたのは、本当にありがとうと、思っています。よしださんのお陰で私の心はとても救われました。
「生まれてから今までに、人からしてもらったこと、されたことを書く」
やってみよう、と思った。
私は自分について知りたいと思っていた。でもその方法をわからないでいた。自分が嬉しいと思うことってなんだろう。それを読んだ時、深く考えずに、やってみようと思った。ノートを開き、書き始めた。
書き始めて何ページ目かで、私は泣きたいような気持ちになってきた。
よしださんはどうして、私に会ってくれる気になったのだろう。私の悩みを受け止めてくれたのだろう。
ばーちゃん。私がどんな愛想のない態度でいる時もいつも温かく接してくれる。
「あなたの感性、好きですよ」、コメントをくれた中学の先生。
ロシアで、見ず知らずの日本人のためにクレジットカードを拾って届けてくださった恩人の方。
家族や友達や、みんな。してもらったこと1つ1つに、なぜ、と思ってしまう。
どうして、私のために?
人がしてくれたことを書くのは難しくはない。それこそ波が砂浜を洗うようなスピードで文字はノートの紙面を覆い尽くす。ざぶーん、ざぶーん、ざぶーん。幾ページかめくられた後で、はたと手が止まった。
「人からされたこと」を書こうとした途端、躊躇してしまう。
人からされて嫌だったこと…。記憶を辿り、いくつか、これはと思うものを見つけた。ノートに書き込んだ。
中学の時、クラスメイトに読んでいた本を奪われたこと。
飲み会で男の子に下ネタでからかわれたこと。
じっと考えてみるとそれらはされて嫌だったことではなく、むしろされて嬉しかったことに分類される。
別にそこまで嫌というわけでは。どう反応していいのかわからなくて困るけど、少しは嬉しかった。どんな形であれ、関わろうとしてくれたのに違いないから。私は自分から人に関わることに臆病なくせ、人から構われることを切望していた。
でもやっぱり、嫌なのは本当なので、できたらやめてほしいけど。
人からされたことも思い返してみると、そんなに嫌でなくなっている。
いくつかは、きちんと納得して受け入れた。でも実際は、されたことの多くを私は納得できないまま、ただ諦めているだけだったかもしれない。
諦めることと、納得することは違う。
諦めるのは、相手の正しさを前に自分のわがままを間違っていると認めることだ。納得は、嫌だと感じた自分の気持ちを認めた上で、相手の正しさを受け入れることだ。
「誰も、間違ってはいない」
よしださんの言った言葉を思い出す。
誰も、間違ってはいない。それは諦める理由にはならない。
誰も間違っていないから、納得できる答えを見つけなければと思う。
そんな簡単に、納得などできるわけがないんだ。
しょうがないよと言い訳して逃げていないで、心から納得できるまで、諦めたらだめだ。
その嫌な気持ちは本物だから。そして、嬉しい気持ちだって本物だ。
本当の自分ってなんだろう。よくわからなくなって困っていた私に、よしださんの勧めてくれた本はそこから抜け出す道を示してくれた。