『ことり』

なぜ読むのか。
それは、そこに本があるから。

私は基本、本を買わない人間だ。読むペースに合わせて次々に本を買っていたらあっという間にお金は底をついてしまうだろうし、部屋中本で埋まりかねない。図書館に通ったほうが合理的だ。
つまり、手元に本を残しておかないタイプ。最後まで読み終えたら大体わかったような気になって、本を閉じておしまい。という場合がほとんどなのだけれど、時には久しぶりにもう一度読んでみたいという気まぐれを起こすことがある。

私が初めてその本を読んだのは、ちょうど3年前、雪と氷に閉ざされたロシアで。日本センターの本棚の中に置かれた一冊を手に取った。それが『ことり』。日本語の本ならなんでもよかった。

その時の感想が残されている。

「ゲストハウスでの細々とした対応や、鳥小屋の掃除は、どれだけ完璧にやり遂げたとしても、地味な仕事であることに変わりはない。……この本の作者は、本を書くことを通して小父さんみたいな熟練の技にスポットを当てていたように私は思う。眩しく輝くライトではなく、提灯みたいな優しい灯りを」
(全文はこちら。ダーリンに来る前に私が書いていたブログ)

繰り返される日々の営みは安心を生み出す。夜が明けて朝が来るのと同じくらいに確かで、食べ慣れた味や着慣れた服のように身に馴染んだもの。
もし小父さんが生きていたら、今日も鶏小屋の掃除やゲストハウスの仕事をきっちりやり遂げるのだろう。誰も見ていないどこかで、計ったように正確に仕事がなされていることを考えると、私はとても穏やかな気持ちになる。

だから疑問だった。
例えば、小父さんがゲストハウスのお客さん用のチョコレートを食べてしまったこと。鈴虫の箱を持った老人や、女の子が誘拐される事件。「ことり、ことり」と陰で囁かれていたこと。
完結された日常にそれらは影を投げかける。感想に書くことはなかったけれど、その暗さを3年前の私は気に入らなかったはずだ。
ただ感じていた。不協和音のような歪さ。わけのわからない不気味もの。
なぜ小川さんはそんな風に書くのだろうと謎だった。

3年前の私がブログに感想を書き残したのは、たぶん、未消化のままの部分に栞を挟んでおくみたいなことだった。
『ことり』は再び私の手元にやってきた。思いもよらない形で。過去の自分から手紙を受け取るような気分でページを開く。

そうして読み直すと、懐の深い物語だなあと思う。心地よいものだけで世界は成り立っているわけではない。現実はむしろ意味のわからないことばかりだ。
暗がりは優しくそこにある。意味なんかなくても、綺麗でなくても、不完全でも、存在していていいんだよ。

あの時言葉にされなかったことを今の私はじっと見つめている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。