障害と能力、私が世の中で違和感と感じること

4月がだんだん迫ってきているのに、未だ私は仕事を見つけられない。
ろう学校か難聴学級で働きたい、と心に決めていた。でも私には特別支援学校で教えるための免許がない。というのが悩みどころ。

採用されたのなら一般学校でも、精一杯、自分のできることをやるつもりだ。そう思っていた。
「一般学校で働いたらいいよ。もっと障害者が教育に参加するといい」
まるで簡単なことのように人は言う。だから私は信じてしまった。学校ではきっと聞こえないことが受け入れられるだろう、と。

甘かった。
聞こえない教員はどこにも必要とされていない。福祉実践教室に呼ばれることはあっても、普段の授業において支障が生じてしまう。聞こえないことは所詮、厄介なお荷物でしかない。
それが現実なんだ?
生徒の声を聞こえなければ教員はできない。誰かの声を聞き逃すたびに、その発言を無駄にしてしまう。勇気を出して意見を言ってくれた子も、伝わらなかったのなら次はない。
緊急時に対応できなければいけない。保護者とうまくやりとりできなければいけない。
私に、できるのだろうか。

「やってみなければわからない」
と私はそう主張してみる。
聞こえないせいで自分も、周りの人もみんないやな思いをするだろうとわかっているのに?

この前たまたまニュースでこんなコメントを見たんだ。

生きていい人と 生きては駄目な人が 分断されている

相模原障害者施設殺傷事件の被告について語っていた言葉だ。
2016年、19人の障害者が殺害された。なぜ、植松被告は重度の知的障害を持つ人々を殺したのか。彼らは生きている価値がない?

植松被告が
「自分は役に立たない人間ではない」
ということを
証明するために
事件を起こしたのではないか

ニュースの中で述べられていた意見に私はドキッとする。

できないと思われたくなかった。
「私は声で話せるし、電話はできないけれど、頑張ればある程度は聞こえます」
そんな風に自分について説明することもあるのだけれど、言うたびにいつも、若干の後ろめたさが後に残る。声を使わないろう者たちを私は否定している。いくら頑張っても難聴は聴者に敵いはしないのに。
圧力の中でアイデンティティが揺れる。聞こえる自分と聞こえない自分。できることとできないこと。その狭間でぐらぐらと傾く天秤。私はもう、立っていることができない。

能力がないというだけで、そんなに肩身の狭い思いをしなければならないのだろうか。
能力至上の社会に生きている、と思う。植松被告だけじゃないはずだ。
就活生、受験生。
社会人、学生。
政治家、クリエイター。
誰でもみんな、常に厳しい評価にさらされている。役に立つか、立たないか。生きる価値があるかないか。

なぜ自分の価値を他人に決められなければならない?
「何のためにテストがあるの?」
中学高校の頃散々繰り返した問いを、私はいまだに引きずり続ける。
何のために人をふるいにかけるの?

満足に働けない人間を間違って雇ってしまわないように、ふるいにかける必要がある?
まず仕事があって、そこに人間が就く。仕事に合わせて人間は自分の持てる能力を用い、パフォームしなければならない。もし能力が足りなくて求められているレベルに届かなかったら?無理をするか、無理だと諦めるか、どちらかなのだろう。
できない仕事に就いてしまって不幸せな結果になるよりも、最初から断ってしまった方がいい。その方がみんな幸せだ。
そんな考え方を当たり前としてきた社会に、私は疑問を持ってしまう。ひとりひとりを大切にしない社会になど生きる意味はあるのだろうか。

内田樹さんはこう書いている。

誰かが呼んでいる。「ちょっと手を貸してくれないか」。それに応えて、「私でよければ」と手を差し出したことで人はおのれの天職に出会う。

求められていることと、自分のできることがパズルのピースみたいにぴったりはまったら、それが天職なんだろうな。
そんな天職に「呼ばれる」ことなんて滅多にない。

個人の能力に合わせて仕事が生まれるようなシステムだったら、天職とまではいかなくても、もっと働きやすくなると思うんだ。
会社は来るもの拒まずいろんな人を採用する。その後で、仕事内容を相談して決める。その人が何をやりたいか、世の中では何が求められているか、元から持っている能力を最大限活用するにはどうしたらいいか。雇っている人に合わせて会社の仕事内容は変化していく。
なんだか、面白い仕事が生まれそう。

たとえ私が聞こえなかったとしても、話すことができなかったとしても、やまゆり園に暮らすうちのひとりだったとしても、教員となれる学校だったらいいのに。
「できないこと」は決して責められるものではない。その人だからできることがきっとある。それを私たちは見出さなければならない。ひとりひとりに活躍の場を提供するのが、社会の本来の役割だと私は思っている。
何を基準にしても人間が生きる価値は測れないはずだ。能力と価値は実のところ、関係ない。
そのことを、学校では誰も私に教えてくれなかった。

3月ごろになったら学校から講師募集の連絡が来るんじゃないかと、楽観的に待っている。
それまでゆっくり考えよう。
私に何ができるのだろう。

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