音楽芸術論コメント:蝶々夫人

#こちらはよしだじゅんやが週に一度大学でとっている音楽芸術論という講義のコメントペーパーをそのままコピペしたものです。コメントペーパーがあまりにも小さかったので、特別にメールで無制限に書かせてもらっています。

#蝶々夫人は20世期初頭にプッチーニによって制作されたイタリアオペラです。

 

蝶々夫人、はじめての鑑賞でした。

まず蝶々が夫を恋焦がれるシーンから見始めたわけですが、驚きます。まったく蝶々夫人に共感をしません。恐ろしく純粋な故に、無知で男性に騙されたバカな女に見えます。そりゃあ自業自得でしょう、と鑑賞者は彼女から距離を置くだろうと感じました。

で、さらに驚きなのが、ピンカートンの登場です。なんと、こいつにもまったく共感しません。蝶々夫人の不遇を嘆いて後悔しはじめますが、お前のせいちゃうんか?という疑問から彼からも距離を感じてしまいます。

つまり、蝶々夫人という作品は主人公にまったく共感できない作品なのです。

 

当然のように疑問が生じます。

観客はこの作品のどこに魅力を感じているんでしょうか、、、、!?

かなり心配になって鑑賞を続けると、その答えは明らかになりました。

蝶々夫人のなかで最も共感できて魅力があるのは側近たちです。スズキやシャープレスですね。彼らの表情は明らかに夫人たちと違って、人生経験が豊富で人間的な深みを感じさせらます。主人たちが悲しむ姿を見て、側近たちがそっと側によって嘆いたり、忠告をするシーンは印象的で魅力的です。

 

蝶々夫人を観る人々は、側近たちの人間味に共感し、出来事と共に移り変わる彼らの心情の動きを、注意深く鑑賞するのだと感じました。

つまり、主人公はただ純粋なものの象徴で、それが巻き起こす事件をだしにして、側近を引き立てる。という構造なのでしょう。

この主人公をだしにしてサブを引き立てるという手法は少年漫画でよく用いられます。

それに対して映画の「君の名は」は、主人公自体に人間味があり、外部環境の変化によって心情の変化が起こります。

ので、観客の共感を得るにはどうすればよいか。という問題を抽象化すると、「人間味」と「外部要因」ということになりそうです。それらをどの構造で配置するかが原作者と脚本家の腕の見せどころになるのでしょうね。

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