「人はね、目と鼻と口と耳と手と足があればどこにでもいける。なんでもできる。あなたはその耳が無いだけだよ。たったそれだけ」
母はわたしの目を見つめては続けた。
「だからあなたはどこにでもいけるよ、なんでもできるよ。大丈夫だよ」
海から冷たい風がよく届く白に包まれた街でわたしは9年も長い長い義務教育を受けていた。地理の関係で1年の大半が霧に包まれることから霧の街と呼ばれるこの街でわたしは母と2人で過ごしていた。
「あなたのお子様は耳が聞こえないんです」
北の国の奥の奥、わたしが生まれた小さな街に耳が聞こえない子供を対象とした教育機関が無かったことから母はわたしを抱えて霧の街まで駆けつけた。
小さな街から霧の街まで車で1時間と少し。果てまで広がる草原と、少し険しい山道を抜けたら視界はあっという間に白に覆われていく。そして現れる都会的な街並み。そこに、耳が聞こえない子供を対象とした教育機関は存在していたのだ。
この教育機関は義務教育が受けられる他、乳幼児相談と幼稚園も備え付けられていたのだ。母は小さな街から週に数回片道1時間と少しもかけて乳幼児相談へ通っていたのだ。
そしてわたしが義務教育を受けなければならない齢になることも考えたうえで母はこの教育機関で義務教育を受けさせようと決意しては、わたしが幼稚園になる前に小さな街で働く父を置いて母とわたしたった2人で霧の街で暮らしを始めた。
そしてわたしはこの教育機関の幼稚園から、義務教育が終えるまでの12年間、この霧の街で育った。
途中で新たな命は芽吹き、わたしに弟ができた。
霧の街で2人暮らし、途中から3人で暮らし、週末は小さな街へ戻る。そんな生活を12年間もした。
「この先、生きていく上でクソ野郎って思うこともたくさんある。嫌いになる人は絶対にいる。それは避けられないと思う。その逆もそう。あなたのことが嫌いな人は絶対現れるよ」
「でもね、そういう人もいるんだ。そういう性格のそういうタイプのそういう人なんだなって思いなさい」
「自分は自分。相手は相手。それでこの話は終わりなの」
「いけないのは私が相手を変えてあげなきゃ!と自分の考え方を押し付けることだからね」
母と一緒に生活していた頃、わたしは母に言われた言葉ひとつひとつを胸に今日まで生きてきた。
母は昔から冒険心と挑戦心に溢れていて、かつ飽き性で、そして考え方が誰よりも先に行っていた。
「茶髪に染めるの禁止という校則が1番意味がわからなかった。誰にも迷惑かけていないのにね?だからママは高校一番の成績を残して、生徒会やボランティアなどの奉仕活動もしっかりした上で先生が文句言えないような状況で髪を茶色にして通学してたよ」
「女は結婚したもん勝ちや」と思っていた母は高校卒業しても定職には就かずバイトを転々しては遊び暮らしていた。
ある時は港街に住んでみたいという理由から北の国の1番南にある別の国にとても近い赤レンガと何万ドルの夜景が見れる山があるとかで謳われてる港街に数年住んだこともあった。
ある時は1人暮らしの苦労を知らないからとかでアパートを借りて半年間1人暮らしをしてみたこともあった。
ある時はレストランやスナックのママ、郵便局やスーパー、花屋や喫茶店、中華料理店もあればラーメン屋も。本当に様々なバイトを転々としていた。
それもどれも飽きたら次、飽きたら次、という生活をしていたある日、父に出会い、恋をして、わたしが生まれたのだ。
「結婚はクソ」
母はそう口を溢した。
「もともと人間って100%分かり合えないようになってると思うの。子どものあなたの気持ちが100%わかるわけでもないし、ママもおばあさんの気持ちが100%わかるわけでもない。100%分かり合えない人と一緒に暮らすってすごく難しいことなの」
「わたしは父と気軽に恋して気軽に結婚しちゃったようなものだからね。でもそれであなたが生まれたから。結婚はクソだけど後悔はしてないよ」
母と2人で暮らしてた頃、わたしは母の昔話がとても好きでいつも語りかけてくれた。まるで絵本を読み聞かせるかのように。
母の見方、母の考え方は誰よりも先を歩いていて、小さい頃のわたしはとても勉強になっていて、気付く頃にはそれが今のわたしの人格にもなっていた。
高校進学を機に母と離れて暮らし、大学で北の国を離れて数年経ったある日、わたしは今の日本の法律では結婚ができない、「普通」の人と違うという現実に直面しては悩んでさらに数年後、それを全て母に話した。
母はたった一言だけ返してきた。
「それでもあなたはママの子ども、それだけ」
この一言でわたしはどれだけ救われたんだろうか。この母の子どもでよかったんだと、そう思えたのだ。
あまりにも実家に帰らなさすぎて少しお叱りをいただいたので今月末帰ることになりました。