ちょりすさんが太宰治を好きなのはどうしてなんだろう。それ聞いてみたらよかったなあ。
じんぐうじさんはなんだか、『舟を編む』のまじめさんみたいだ。
自分が書いた小説をよしださんに説明されるまで私は、気づいていなかった。こんな現実的な話だったなんて。
通信技術が発達して、過去の自分にリマインドを送れるようになったら、話し足りなさは少しは減るのだろうか。
今なら、あの時言いたかったことを言葉にできる気がする。
「ハリーのことをおもしろいと思う」
言いながら、だんだんわからなくなってくる。何をおもしろいと思ったんだっけ。私はおもしろいと思うけど、相手にとってもおもしろいとは限らないぞ。
利己主義を正当化する考え方が、私には新鮮だった。
こうやって文章に書こうとすれば、落ち着いて考えをまとめることができる。なのに、誰かを前に説明しようとすると、言葉が見つからない。自分がどう感じたかを見失ってしまいそうになる。
『僕たちはどう生きるか』について、よしださんが話していたことも同じだ。
私はコペルくんに共感できない。
そんなに苦しまないで、と言いたくなる。主人公が悩んだり、苦しんだりしているのを読むと、私の心も苦しくなる。
暗い話を読むのが苦手なのは、それが理由。誰かが苦しんでいるのを見るのがつらいから。
それは、共感しているわけではなくて、同情しているだけじゃないか。
私は観客の立場で、コペルくんを見ている。自分がコペルくんの立場だったら、というのをうまく想像できない。
「きっと友達に謝ると思う」と私は答えた。謝らないままなんて嫌だと思った。
「絶交すると言われるかもしれない。そう思うと怖いんじゃない」よしださんが言う。
あ、確かに。怖いなあ。
誰かと向き合っている時に、自己が希薄になっていく感覚、どうしたらいいんだろう。
『ドリアン・グレイの肖像』の登場人物、ハリーは、「自分の本性を完全に実現すること」を人生の目的だと言う。
良き影響などというものはあるはずがない。影響は全て不道徳なものだ
と、言い切ってしまうところがすごい。
いちど影響を蒙った人間は、自分にとって自然な考えかたもしなければ、自分にとって自然な情熱で燃えあがることもない。
自分にとって自然な考え方って何だろう……。考えてしまうね。
私は自分を見失っているのかもしれないけれど、でも、人から影響を受けることで、見える景色もあるんじゃないかと思うよ。竹取物語を読み始めたり、ひょっとしたら、太宰治を気に入ったりするかもしれない。
一緒に話していたのは30分ちょっとだったけど、すごく楽しかったです!本について、こんな風に私は誰かと話してみたかったんだ。
わざわざ読書会来てくれてありがとう、、、!ちゃんと解釈してるから偉いなあ。