おじいちゃんはわたしの名前を呼んだ。
おばあちゃんはとても泣きそうな顔をしていた。
わたしは笑っていた。笑顔でいるしかできなかった。
下から重圧が体を響き渡っては上に抜けていく。
あんなに青かった窓が一気に白で塗り替えていった。
最後に帰ったのが2017年の秋だから‥‥。
2020年の2月、わたしは北の国へ向かう空飛ぶ鉄の塊に乗っていた。
北の国の奥の奥、わたしが生まれた街に友人はほとんど都会に流れてしまったためいない。家族と、親戚と、死んだ黒猫の骨と、先祖のお墓と、この街の人口よりもはるかに多い牛とただただ広い自然しかない。
「全てを忘れてしまう前に一度会いにおいで」
なかなか帰省するタイミングが見つからないわたしにおばあちゃんは与えてくれた。
おじいちゃんが事故にあった。
頭を強く打ったらしい。
ゆっくり長く積み上げられた命と同じくらいに大切な大切な記憶たちが少しずつ少しずつ消えているらしい。
自分の息子である父のことも、その父が愛した母のことも。
父の姉の3人いる息子たちのうち2人のことも。
そしてわたしの弟のことも。
自分の名前すらも怪しいほどに。
記憶がこぼれ落ちているという知らせを受けてわたしは急遽帰省することにした。
鉄の塊から降りたとき、肌に触れる冷気。
鼻の奥まで染み渡っては広がって弾ける透き通った空気。
帰ってきた。
大量に流れる回転鞄たちから自分の荷物を救い上げてはわたしは空港の広場に出た。
母が空港の椅子に座って服の収納に収まる大きさの球体で化け物を捕まえる遊びを携帯情報端末で遊んでいた。
「おっかっこよくなった?」
「でしょ?わかってるわあ」
そんな会話を繰り広げながら車に乗り込み、走り出した。
北の国の奥の奥、小さな街のさらに奥。
それはひと目見てすぐ昭和頃に建てられたとわかる古い一軒家だった。
2年ぶりだなあとわたしは思った。
その一軒家の窓からふたり、わたしを見ている人がいた。
おじいちゃんとおばあちゃんだった。
「久しぶりね、元気?ここは寒いでしょう」
「元気だよ!やっぱりここは寒いね。向こうはもう春がはじまったって感じだよ」
おばあちゃんに軽く挨拶してはソファーに座っているおじいちゃんと向き合って顔を合わせた。おじいちゃんは座ったまま、動かない。
「もうね、体もあまり動けないのよね」
おばあちゃんはおじいちゃんの隣に座っては声をかけていた。
「ねえ、覚えてる?この子、覚えてる?」
何度も繰り返す呼びかけ、そして。
少しの間実家に滞在してはあっという間に迫る帰省日、わたしは母とおばあちゃんと蕎麦屋に来ていた。
「前からやっているダンスは今も続けているし、おじいちゃんのお世話をしながら好きなことをして寝てあとはお迎えを待つだけね」
おばあちゃんは笑っていた。わたしは少し笑えなかった。
おばあちゃんはやりたいことを充分やってきたから、このセリフを躊躇無く言えるんだろうか、と思いながらわたしは蕎麦汁で薄めたつゆを口にした。少しの酸っぱさが広がっていた。
「一度、わたしの家に遊びにおいで」
「そうね、さいごに一度は行きたいわね」
わたしの家に遊びに来る、とおばあちゃんと約束をした。叶いたいなあと思いながら。
約束は、生きる糧になる。
そして、わたしは北の国を後にした。