「長崎に行きたいんだけど、お父さんは遠いというんだよねえ」
長崎の中華街にある、薬膳カフェに行ってみたいのだと言う。なんでも好きな小説の舞台かもしれないというわけで。
「じゃあ一緒に行こう」
私は言った。
長崎なんて飛行機であっという間に行けるよ。もっと自由に、行きたいところどこへだって、行ってみたらいいんだ。
そんな気持ちで私は母を旅行に連れ出したのかもしれない。
母と私は、「姉妹みたい」とよく言われる。どっちが姉でどっちが妹なのだろう。
大抵の場合私は相手の思い違いに憤慨していたため、これまで聞いてみることをしなかった。似ているなんて言われても、少しも嬉しくない。
しかし姉か妹かというのは、結構重大な問題だ。
自分の母親なのに、自分より年下の、守ってあげないといけない存在に感じることがある。
「お母さんはさ、」と呼びながら、私は時々疑問に思うんだ。目の前にいるのは、本当に私を生んだ人なのだろうか。
私の難聴は遺伝性と診断されている。
というからには、母の難聴は私に遺伝したものと考えて良さそうだ。
「聞こえる耳だったらよかった」と私が言った時、ごめんねと母は謝った。
何年も前のことだ。今はそんなこと言わない。
ただひとつだけ残念だと思うのは、聞こえないことに誇りを持てるような境遇になかったこと。
仕方ないよ。だって、母自身、聞こえないことを否定されながら大人になったのだ。手話も知らない。生まれてきた子どもをろうとして育てるのは土台無理な話だろう。
小さい頃に母は高熱を出し、聴力を失った。
病院に連れていかれ、「悪い血を取るため」と背中から血液を吸引されたと、母は聞かせてくれた。血行を良くするためには針きゅうが良いだの、ヨガが良い、ジョギングが良い、やれ山登りをさせろと、聞きつけるたびに祖母は試させた。体の弱い母のために、少しでも聞こえがよくなるのならと。
それでも、手術はしなかった。
「痛いのは嫌だ」と母が拒否した。「頭蓋骨に穴を開けて手術するなんて。こわい」
ありがたいことに私は、手術を含め病院や、あれやこれやの民間療法も免れている。私の母は、娘の耳を聞こえるようにするための努力を綺麗さっぱり放棄した。
血液吸引やら針きゅうやら、散々痛い目にあって結局、聞こえるようにはならないと悟ったから。
というよりは、あまり気にしていなかっただけかもしれない。母は祖母ほどに、心配性でもお節介焼きでもなかった。
「もっと子どものためにしてあげられたんじゃないの」
ある時祖母は母を責めて言った。
私についてではない。当時不登校の妹のことだったと思う。
何ができるというんだ。私は首を傾げちゃうね。
でもそれは自分も同じ。私に何ができるというんだ。
家を出て一人暮らしをしたかった。私が留学を決意したのには、そんな思いもあった。
ロシアへ行き、そこで自分がちゃんと生きていけると自信を持った。手話を知り、聞こえない自分として生きていく意思を持った。
母と自分は違うのだと証明したかった。誰かに守ってもらう必要なんかないって。
ロシアに行った。手話を覚えた。
それでも何も強くなったわけではなかった。自分の中の弱さはなくならない。
長崎の原爆資料館で気分を悪くした私に、「わかるよ」と母は言った。
白黒写真の火傷した肌、頭蓋骨の一部が溶けてくっついたヘルメット、被爆者の当時を綴った文章。見ていると耐えられなくなる。
口内炎が痛いだの、カレーが中辛だとひりひりするだの、母はちょっとしたことを大げさに痛がる。普段の私なら、そんなの我慢しなよと言いたくなっちゃうけど。
痛みに弱いのが、私は情けないんだな。
私のことをすごいねと、母は言う。「私一人じゃ飛行機に乗れなかった」
飛行機に乗るくらい、どうってことないよ。スマホかパスポートひとつ見せるだけで、空港のチェックインを済ませてしまえる時代なんだから。
「私、方向音痴で困る」
スマホのマップを見たら大丈夫だよ。困ったら、誰かに聞けば教えてくれる。
「すごいねえ」
何も、すごくないのに。
誰かと一緒でなくても、どこへでも行けるよ。「遠いから無理」だなんて言っていないで、もっと自由に、好きなように生きていかなきゃ。
そうして私は、恐れや不安や無力さに背を向ける。
手術を勧める親でなくてよかった。本当は怖がりの私は、手術なんて受けなくてよかったんだ。