ずんだ

さやえんどうの実を取り出す。
2枚のサヤの継ぎ目に親指の爪を当てて押すと、ぱかっ。
列をなしてぎっしり実が詰まっているサヤもあれば、大小でこぼこと収まっているサヤもある。大きいのは大豆くらい。小さいのはほんとゴマみたい。
ひと粒ひと粒が、なんだかかわいい。こぼさないように細心の注意を払いながら、しわのないライムグリーンの豆たちをボウルに入れる。

丸緑、丸黄、しわ緑、しわ黄。
AABB、AaBB、AABb、AaBb…

メンデルの法則について勉強したのは、中学の時?いや、高校だったっけ。
えんどう豆はまだ理解できていたけれど、ハエが出てきてからさっぱりわからなくなった。
どれだけ丁寧に記号を並べてみても、どこかで必ずつまずいた。絶対に答えにたどり着けないような気がした。
きっとどこかで何かを間違えたんだ。高校生の時つまずいていたところが、どうしてかな、いまだに気になっているなんて。

えんどう豆の形質は4パターンあったけれど、さやえんどうは粒の大きい小さいの差こそあれ、どれも同じ色をした丸い形をしている。
さやえんどうの実を取り出す作業は少しも複雑なところがない。その過程は3段階に分けられる。
まず第一に、スナップえんどうとさやえんどう。一緒くたに袋の中に入っているので分けておく。見分け方は手触り。表面がつるつる光っていて、ふっくらした緑のサヤがスナップえんどう。茹でてマヨネーズか味噌で食べる。一方さやえんどうはサヤが薄い。手で持った時のでこぼこで豆の膨らみ具合がわかる。
次に、さやえんどうの中でも実が膨らんでいるものとそうでないものを分ける。ぺたんこのさやえんどうはすじとへたを取り、煮物にして食べる。
そうして残った大部分はサヤを開いて中身を取り出す。豆はボウルの中へ、空っぽのサヤは新聞の上へ。

こうやって手を動かしていると、心によみがえってくる映画の一場面がある。
継母に言われて暗い物置でシンデレラが豆をより分けている。その作業が早いのなんの。袋の中にぎっしり詰まった豆の一粒を掴み取り、右の袋か左の袋へほとんど一瞬のうちに放り込む。たぶん虫食いとそうでないのを分けていたんだと思うな。迷いのない、リズミカルな動き。
大学1年生の授業で見た、ロシア版のシンデレラ。豆を分けるシーンが妙に印象に残っている。
ロシアのシンデレラって、めっちゃ仕事が早いんだなあ。

映画のシンデレラと同じように、私の手はオートマティックに動き続ける。豆を選ぶ。サヤを開いて豆を取り出す。その繰り返し。
本当だったら、サヤも豆もまるごと食べられる。でも今日のさやえんどうはちょっと育ちすぎてしまった。
実がパンパンに膨らんでもうちょっとしたらはじけてしまいそうなのもある。こういうのは、サヤが固くてとても食べられたもんじゃない。
だから、ずんだを作ろうと思いついたんだ。

以前、仙台のカフェで食べたずんだパフェ。私の知るずんだとは、ずばりそれだ。
白玉の上にかけられたうぐいす色のペーストは甘かった。あんことも違う。抹茶とも違う。
枝豆か、そら豆からずんだは作られる。私の記憶の味はおぼろげで、今となっては、私が食べたのはどっちだったのかわからない。

さやえんどうからもずんだを作れる気がした。
レシピはもちろん知らないけど、調べたりなんてしない。段取りはしっかり頭の中にあるから大丈夫だ。
サヤから豆を取り出して、さっと茹でる。豆乳をちょこっと足してミキサーにかけたら、きっとそれっぽいものができるだろう。そしたら塩か砂糖で味を整えればいい。

窓辺に西日が差している。豆の青臭い匂いと、とれたてのいちごの甘い香り。
心地よい薄暗さの中で、豆を選び、サヤを開ける。ころころとした豆たちがボウルの中を満たしていく。

単純作業は少しも嫌ではなくて、むしろずっとこうしていたいような気持ちだった。

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