それでも勉強する意味なんてあるの?

例えば、あのマックの看板。暮れゆく空に丸みを帯びた黄色の曲線がMの形にくっきり浮かび上がる。

Q. 放物線の区間Mの長さを求めよ。

マックのロゴは二次関数の曲線が2つ組み合わさった形に見える。上に凸のグラフ。2つの、y=-ax2+bx+c。
a、b、cの値がわかっていたら、Mの字の真ん中、グラフの交点を求めるのはできそうだ。
そしたら、それぞれの端から交点の長さを求める。…どうやって求めるんだっけ?積分?微分?そこから先はもう、曖昧だ。

例えば、マックのロゴの長さみたいなのを、高校生の頃の私は計算していたんだなあ。

先日、
高校生たちを前に私は、大学受験について自分の経験を話した。

どうやって受ける大学を決めたか。英語のリスニングはどうしたか。1日どれくらい勉強したか。勉強方法について。

事前にもらっていた質問に対し、精一杯の答えを話したつもりだ。でもありのまま全てを伝えたわけじゃない。
「まずは目標を決めよう」と言いながら、当時の私は、目標を持てずにいた。
「数学の問題集を1問ずつ、繰り返し解いた」闇雲に、言われるままに、そうしただけだ。
何のために勉強するのだろう?受験が終わったら忘れてしまうのに。
毎日真面目に授業を受けながら虚しい気持ちでいたことは、話さなかった。
そういった私の経験を話すことが、目の前の彼らにとって、役に立つかどうかというのは、あまり確信が持てなかったから。

高校生ひとりひとりが、勉強することに対してどんな思いを持っていたのか、私は知らなかっし、どうして大学に行きたいと思っているのかについても、聞かなかった。それを聞くことができていたら、もっと相手が必要としていることを話せただろうか。
また今度会ったときに、きっと聞いてみよう。

もしも私が、7年、8年前の自分に向かって話をするなら、何を伝えられただろう?
微分積分、その他(忘れた)の問題から、逃げ出したいと思いながら、せっせと解いていたあの頃の私。

あんなに必死こいて覚えた数学を今やすっかり忘れてしまっている。
それでも勉強する意味なんてあるの?

イエス。
今ならそう答える。

数学が苦手だった。
でもいつの間にか、数学を好きになった。
少しずつわかるようになったから。
わかっていればわざわざ勉強しなくてもいい。難しいことだから、勉強する価値があるんだ。

今振り返ってみれば、私にとって高校までの勉強は、道をつける作業だったと言えるかもしれない。先生が示す道を自分でも確かめながら歩いていく。
いろんなところに道はつながっている。古典や歴史や化学、生物、言語。ね、あらゆる方向に道は伸びている。
二次関数の曲線の長さの求め方だってそうだ。ちゃんと答えにたどり着ける方法がある。

そこにたどり着けることを知らなければ、その場所は存在しないのと同じだ。
マックのロゴを放物線の式で表す発想がなければ、微分積分もない。マックのロゴの長さがわかったその後の、存在したかもしれない可能性もない。
道がつながっていることを確信する人は、どこにでもたどり着けるんじゃないかって思う。そこまでたどり着けたらさらに向こうまで、すでにある道からさらに新しい場所へと、世界を拓いていけるかもしれない。

私が選ばなかった道はあまりにも多い。
ちょっと引き返して、たどり直してみたいような気持ちになる。
机に置かれた問題集の中の、問題のひとつを眺めながら想う。もう一度、高校生に戻れたりしないかなあ。

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