昔書いていたブログが頭おかしい
「すでにあなたはうつくしい」
先日、書店の中を散策しているとどこか遠い所から叫び声、上品に言い換えれば年若い人たちの肺活量溢れるボイスが僕の鼓膜を優しくノック。何事?と思いながら足を運ばせると、そこには遊具を用いて楽しそうに遊ぶ御姿があった。その脇には彼らの製造責任者と思しき方々の影もチラホラ。『産地直送』――僕の脳裏にそんな言葉が踊って浮かぶ。
こんな論調を続けているとPTAの人たちにスリリングなお叱りを受けそうなのでこの辺りで止めておくけれど、とにかくも僕は久方ぶりに児童図書が並ぶ棚の前に立っていた。泣いた赤鬼、エルマーのぼうけん。いずれも僕がショタだった時代に狂ったように読み耽っていた本ばかり。何と懐かしい……久しく目にしていなかった様々な絵本を見ているうち、胸の中にノスタルジックな想いが激しく交錯する。脳裏に浮かぶのは、今はもう戻れない日々の思い出ばかり。それは確実に切なくて苦しくて、名状しがたいもどかしさをひたすら僕に与えてくれる。
絵本の隣には子供向けの雑誌が並べられていた。めばえ、マミイ、ベビーブック。表紙を飾るアンパンマンのアルカイックスマイルが、僕の心にヘビーなパンチを浴びせかける。
『♪何のために生まれた』
突如、僕の脳内にアンパンマンの悪魔的な歌声が流れ始めた。『菓子パンの俺ですら地球の平和を守っているのに、お前ときたら……』妄想の中のアンパンマンはまるで鬼軍曹のようだった。僕に向かって説教をたれつつ、メビウスの煙を思い切り吐きかけてくる。すいませんアンさん……でも最近の不況でどうにも……僕は地面に這いつくばりながら自虐的に笑う。顔を上げると、視線の先ではバタ子がクチャクチャとガムを噛みながら、気だるそうな様子でアイシャドーを引いていた。バタ子のミニスカートから伸びるスラリとした二本の脚。僕は思わずその肌の白さにゴクリと息を呑む。その視線に気付いたのか、アンパンマンは見せ付けるようにバタ子の尻を撫で回し始めた。『どうだい、俺のアンパン痴のテクは』『フフ、ジャムにする?バターにする?それとも、あ・ん・こ?』目の前で繰り広げられる情景を眺めながら、僕は己の中に罪深い欲求が首をもたげる
そんな感じで児童図書の並ぶ地帯に赴いたところ、目の前に『小学六年生』というド直球な雑誌があった。皆さんも覚えているかもしれませんね、昔から存在する例の小学生向け雑誌です。価値観の多様化した現代にあって、雑誌名が『小学●年生』などである場合それは即座に犯罪のフレグランスが漂いそうなものなのですが、僕の目に飛び込んできたのは極めて健全な書誌。大きなお友達とは無縁の世界のブツ。
で、まあ興味本位でそのブツを手に取ってパラパラと読んでみたところ、その内容ときたら僕の想像の遥か斜め上。僕的には雑誌の中にドラえもんがババンと出てきて『今日は川にいるいきものの生活を見てみよう!』とかいう企画、あるいは高橋名人あたりが『レッツチャレンジ!はじめての16連射』みたいな特集を組んでいるものとばかり思っていたけど、現実は全然違って
『特集!120%かわいく見える写メの撮り方★』
みたいなアビスが広がっておった。仔細に紙面を見てみると『正面から真っ直ぐに写真を撮るとスラッとして見えない。斜めからポージングしちゃおう!』だの『一番可愛く見える角度は斜めから撮った時!上目遣いを駆使しちゃおう♪』だの、まあ正直に申し上げて飢えた文言が乱発されておりました。おい、ウソだろ?まだ小学六年生なのに、アンタそれはあまりにも。
一般的に女性の方が精神年齢が高いと言われている。で、あるとするならば小学六年生の女子たちがちょっと早めに異性に興味を持ったとしても、それは別段不思議なことではないのかもしれない。好奇心が旺盛であることは悪いことではないし、カワイさを追い求めその果てに恋愛をすること、それは何も特別なことじゃない。
でも……果たしてこれでいいのだろうか?『カワイイ写メの撮り方』、確かに大切なスキルかもしれないが、それよりももっと大事なことが他にあるんじゃないのか?ある、絶対にあるはずだ!僕は断言したい。
「それは具体的に、なに?」
僕の話をすれば、そうですね……例えば終わったドラクエのレベル上げとか、ミニ四駆のシャーシを限界まで削るとか、カナヘビを沢山捕まえて蠱毒を作るとか――分かるだろ、そんなテイスト。理屈じゃなくて魂、いわゆるソウルの部分でさあ。
「それって誰か得するの?メラとか唱えてて偏差値上がるの?」
乾いてんなぁー、もう!よろしいか、人生において大事なのは『楽しいか/そうでないか』のラインであって、決して『得をするか/損をするか』じゃあない。そして、これは経験則になるのだけれど、往々にして無駄な遊びというものはかなり高い確率で楽しいものである。
確かにプログラミングされた世界の中で炎の魔法(いわゆるメラ)を唱えても、それは世界に何の動静も与えないだろう。損か得かで考えれば、大切な時間を浪費し、電力を消費し、睡眠時間を磨耗する破滅的な行いだ。でもそれが楽しいんだ!理屈ではないのである。また、そんな作り物の世界に没頭できるのだって、ある面からすれば感受性があるからこそではないだろうか?ちょっと苦しいけれど、そんな説明だって無理じゃない。
そこにあって、カワイイ写メの撮り方講座。悪いとは言わないが、少しだけ想像してみて欲しい。部屋の片隅でキメ顔を作りながら、幾十幾百枚もの写メ撮影に没頭する小学六年生の姿を。
(カシャ!)(違う、こうじゃない……!)
(カシャ!)(いいえ、本当のアタシにはもっとスピリチュアルな何かがあるはず……!)
どうだろうか。僕には措置入院が必要なケースだと思われて仕方がない。メラを唱えている男子の方がよほど健全である、と言えるだろう。
「違うの!女の子は可愛くなることが楽しいし、生きがいなの!だからそういうのだって必要なことなのよ。そんなことも分かんないの?」
女性の側からこんな返しがきたとして、僕は論理を尽くしてパーフェクトに封殺する自信がある。この場合、あなたは説得的な調子でこう言ってあげればよい。『お前の話は聞いてない。これからも聞く予定はない』。完了である。是非使ってみて欲しい。
確かに女性が美を求める気持ちも分かる。好きなあの人のために可愛くなりたい!そう願う気持ちは等しく尊いし、またその心それ自体が既に美しい。誰かのために努力をする、その時あなたは確実に輝いていることだろう。応援するから頑張って欲しい案件だ。
しかし、むやみやたらと外面の美醜に拘泥すること。その精神は果たして美しいのだろうか。輝いているのだろうか。あるいは、成人に近付けば自然に備わるであろう『可愛くなりたい』という欲求、その目覚めを過度に早い段階に設定する必要があるのか。どうにも僕はそのあたりのことが心配だ。
僕が小学六年生の頃といえば、体操服の半ズボンを華麗に着こなし原野を疾駆、一番関心事項は『ベイブレードをどれだけ長く回し続けられるか?』であり、主食は専らうまい棒たこ焼き味、うまい棒最高硬度を誇る逸品だ。それが虚飾ない僕の小学生時代である。自分を格好よく見せたいだとか、チヤホヤされたいなんてことは少しも思わなかった。
よって、何ら美学も持たずただ漠然と『イケてる自分になりたい!』と盲目的に願い、そればかりに生活を支配されること。それは大変危険なことなのではないだろうか。それによって確かに外見的には可愛く、美しくなるかもしれないけれど、きっとそこにおいて量産されるのはひたすらに愛のない世界。おそらく充実感はない。達成感はあっても、きっと満足感はない。どれだけ求めても満たされないココロ、まるで海水を飲んでいるみたい!というアレだ。どれだ。
話が拡散しそうなのでまとめるが、とにかく僕が小学生の当時には携帯電話なんて誰も持っていなかったけれど、根底に流れているマインドは今も昔もある程度変わらないだろう。『かわいくなりたい!』そんなことを心に抱く女子は、今も昔も変わらず存在し続ける。ただ、望むらくは自然発生的にそんな願望を抱いてくれれば……ということだ。本や雑誌、あるいはテレビなどから後付け的、刷り込み的に歪な価値観(≒モテることが至高である、みたいな考え方)を植えつけることはやっぱりいただけない。十分な判断力の備わっていない状態で生き急いでしまっては、思わぬ事故に遭遇することもあるだろう。実にリスキーなのだ、あらゆるシーンで。
打算的になるのはもっと大人になってからでいいはずだ。
そんな事を思いながら書店を出た。
見ろ勇者よ、モテを考えなかった男はただの奇人として貴重な青春時代を空費し続けている。これも人生。
あれ、こんなところに練炭が