リュウがいることが当たり前の日々③

翌朝、リュウは教室に現れた。

わたしの席は教室のほぼ真ん中にある。前から3列目、窓側から数えて4番目の机だ。そのすぐ脇の通路にリュウは陣取った。
前日カフェで経験したのと同様、特に注目を集めることはない。特大サイズの野球部のかばんがそこに置かれているみたいに、みんなリュウの体を避けて通る。リュウの方は踏まれないように配慮してか、しっぽを体にぴったり巻きつけた。それでも長いヒゲがそわそわと漂い出すのは止められないみたいだ。
「日直はどうやって決めるの?」
「学級委員というものは?」
「課題を提出しなかったらどうなるんだい?」
「先生から呼び出しを受けたら、その後は?」
リュウは教室をきょろきょろ見回しては、あれこれと質問した。
他の誰かに聞いてくれたらいいのに。聞く相手ならそこら中にいるじゃないか。わたしと同じ制服を着た高校生で教室中ぎっしり埋め尽くされている。悪いけど、今わたしは忙しいんだ。机の上の英語のプリントに向かってせっせと手を動かす。まだ半分以上空欄が残っている。本当は昨日の夜やるつもりだったけど、結局翌日に持ち越してしまった。どうにもやる気が出なくて。
こんなことは初めてだ。内心わたしは焦っていた。リュウの質問に答えているどころではなかった。あと5分もすれば朝のSTが始まる。そしたら提出期限に間に合わない。毎日課題をきっちりこなしていた「自分」というものが、今日初めて崩壊する…。
「ごめん、課題の邪魔だったね」
わたしがあまりにも上の空だったせいかもしれない。リュウは諦めたようだ。机を離れる気配がした。
「ごめんね」
プリントに視線を落としたまま、わたしも言った。口に出した声は思った以上に小さくて、教室のざわめきの中でかき消されてしまう。
チャイムが鳴った。顔を上げると、青緑の鱗に覆われた背中がすいすいと机や椅子や他の生徒の黒い制服の隙間をぬってドアへと向かうところだった。それと入れ違いに担任が入ってくる。間に合わなかった。ずーん、と気分がどん底まで落ち込む。
リュウは行ってしまった。また会えるのだろうか。わからない。
答えそびれた質問がまだそこらの空気に浮かんでいる気がする。「課題を提出しなかったらどうなるんだい?」
そんなの、どうってことないんだ。課題をサボるなんてなんでもないことだ。本当に。サボる生徒はいっぱいいる。例えば、隣の席の桜木くん。彼が一週間分のプリントを机の中にためていることをわたしは知っている。先生からしつこく催促されて、渋々プリントに取り掛かる姿を時折見かけていた。
桜木くんは極端な例だとしても、週に1度や2度、提出をすっぽかすくらいはよくあることなのだ。また明日、明日の課題と一緒に出せばそれで万事オーケー。そう自分に言い聞かせてみても、気持ちは晴れない。

憂鬱を引きずったまま、古典、数学、体育、英語、と午前中は過ぎていった。英語の先生は、わたしが課題を出さなかったことについて何も言わなかった。もう提出チェックをした後なのか、まだ気づいていないのか。そんな小さなことが気にかかって、わたしは授業に集中できない。
「どうしたの?村瀬さん、聞いてる?」
ぼんやりしていて当てられたことにも気づいていないというありさま。わたしとしたことが…。
お昼休みに入るやいなや、弁当のトートバッグを持ってわたしは教室を抜け出した。そこで英語の先生と鉢合わせした。
「今日はどうしたの?何かあった?」
その昔、キャビンアテンダントになるのが夢だったという天野は、ヒールの高い靴を履き、髪を高く結い上げて、隙のない化粧でばっちり決めている。かっこよくてチャーミングな先生なのだけど、この日ばかりは怖かった。中庭へと続く廊下で、わたしの行く手を阻むように立ちはだかる。
「なんでもないです」
天野は検分するようにわたしの顔をじっと見つめ、それから言った。
「村瀬さんは毎日欠かさず課題を出してくれるから、偉いなあと思ってる」
ああ、やっぱり今朝課題を出さなかったことに気づかれていたのか。お咎めの言葉が続くのを予期してわたしは身構えた。
「でも、忙しい時とか疲れてしまう時もあるでしょ」
あれ。
どうも怒っているわけではなさそうだ。むしろ気遣われているような。天野の優しい言葉はわたしにとどめを刺す。
「頑張りすぎないでね」
罪悪感でいっぱいだ。わたしは天野の顔をまっすぐ見つめることができない。昨日課題を終わらせておけばよかった。そしたら先生に余計な心配をさせることもなかった。新しくできた友達の質問にもきちんと答えられたのに。
それ以上に、自分が小心者であることをわたしは恥じた。たかが課題の提出に遅れるくらいのことで、なぜ人生が終わったみたいな絶望を味わわなければならないんだ。どうかしてる。
「Take it easy!」
しょんぼりするわたしの背中を天野がバンバン叩いていった。

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