リュウがいることが当たり前の日々⑤

放課後の美術室に足を踏み入れるのは初めてのことだった。

校舎の最上階、一番西に位置する教室ではカーテンが締め切られ、窓から入る西陽を和らげていた。美術部員4,5人がおしゃべりしながら作品制作に取り組んでいる。
その中から桜木くんを見つけるのは難しくはなかった。他から離れた場所で、背を丸め、机に肘をついて、せっせと手を動かしている。長く伸びた前髪がちょっとチャラく見える。そのせいで、絵に熱中する姿が、なんだか意外だった。
カラフルな絵。風で吹きちぎられたみたいな雲がぽこんと浮かぶ空に、一色ずつ虹がかかっていく。赤、オレンジ、黄色、黄緑…。
桜木くんの鉛筆さばきは素早い。次から次へと色が移る。無造作に見えるのに、迷いなく的確に色を選ぶ。色を重ねるほどに机の上がどんどん色鉛筆だらけになっていく。
緑の色鉛筆に伸ばしかけた手がふと、止まる。
「おお、びっくりした。全然気配がなかったんだけど。いつからおった?」
絵に向かっていた時の真剣な沈黙が消え失せて、そこには屈託なくこちらに笑いかける桜木くんがいた。
「すごい」
それ以外になんと言っていいのかわからない。もっといい褒め方がありそうなものなのに、なにも思いつかなかった。
桜木くんは肩をすくめる。ちょっとだけ得意そうに。
「写真見て描いてるだけだよ」
見ると、机の上に絵はがきと並んでスマホが置いてあるのが見えた。雲の形も立ち並ぶ家々の屋根も、細かいところまで本物そっくりだ。
「なにか用?」
言われてわたしは思い出す。
「桜木くんに頼みたいことがあるんだ」
青龍のパネルのデザインを描いてもらえないかとお願いした。
「青龍?」
桜木くんの反応は、あまり乗り気ではなさそうだった。指の間で緑の色鉛筆がくるりと回る。
絵はがきみたいな小さな絵にはいいかもしれない。と、わたしは頭の中で思った。巨大なパネルを色鉛筆で塗るとなったらどれだけ時間がかかるだろうか。
「悪いけど、他あたってよ。風景だったら描いてもいいけど、動物とか生き物とか描いたことないし」
「そんなこと言わずに!デザインだけ描いてくれたらいいんだ」
わたしだって本当はあまり気が進まない。気乗りしない相手に頼むなんて。嫌な役目だ。しかし桜木くん以外に他に頼める人をわたしは知らない。4組には美術部員が彼1人だけなのだった。
美紅先輩の半分でもいいからあの説得力がわたしにも欲しい。いや違うな。わたしにきっぱり断る力がないから、パネル責任者なんてやる羽目になってしまったんだ。
「写真を見て描くのならできそう?」
「写真があるなら絵を描く必要はないじゃないか」
「でも、背景とか全体のバランスとかデザインしてくれない?」
「悪いけどそういうの、苦手なんだよね」
桜木くんはもうわたしのことなんか見ていなかった。描きかけの絵の方に意識が向かいかかっている。青龍のパネルなんかに食指は動かないってことか。
「あ、ほら!そこにいいモデルが」
わたしが指差す先には、窓際の席に腰掛けたリュウがいた。長いしっぽを椅子の背に引っ掛けて、カンバスに向かっている。極彩色のアクリル絵の具で何か描いている。
いつからいたのだろう。さっき美術室に入った時には姿が見えなかったはずなのに。溶け込む魔法のせいで見落としていたのかもしれない。
「モデル?」
目を細め、カーテンを透かす光で逆光になった部分を凝視する。まるで見当違いの方向を見ている桜木くんの前で、わたしは指差した。
「あっちあっち」
リュウが気がついて頭を上げる。その顔を見てわたしは笑い出しそうになる。鼻先が絵の具で紫になっていた。
「なんにも、見えないけれど」
桜木くんは怪訝そうな声を出した。
「えっ、リュウが見えない?」
体が青緑色で、手足が赤くて、黄色の明るい翼が生えている…。わたしは説明を試みたけれど、桜木くんは首を横に振った。
「そんなのいないって」
「来て来て」
リュウに向かって手招きすると、素直に席を立ってこちらに来た。頭に生えた2本の角を勘定に入れなければ、桜木くんの方が背が高かった。
「やあ」机の上の絵はがきに気づいて、リュウが言った。「虹の絵、うまいなあ!本物みたいだ」
「ほら、リュウだよ」
ところが桜木くんには見えていないようなのだった。明後日の方をきょろきょろしてる。目の前、手を伸ばせば届くところに立っているのに。
手を伸ばせば?
「ちょっと失礼」
わたしはリュウの青緑の鱗に手を伸ばした。ざらざら。鱗の模様が手に触れる。魚みたいに湿っているわけではなく、滑らかなつやのある鱗。ほんのり温かく感じた。
「ここ!触ってみて」
桜木くんは怪訝そうな顔をしたけれど、言われるままに手を伸ばした。
「あ、もうちょっと前。ちょっと右。そこ」
「……ふざけてるの?」
桜木くんの右手はリュウの背中に触っていたはずだ。手のひらが鱗の表面をなぞるのをわたしはしかと見届けた。なのに。
「何もいないじゃないか」
ははっと笑った。少し困ったような顔で。
それから桜木くんは机の上に散らばったままだった色鉛筆を拾い集めにかかった。
わたしは狐につままれたような心地でリュウを見た。鼻先についた紫よりもずっと濃い色をした瞳がぱちぱちと瞬いた。
「魔法の効き目かな」リュウは言った。「人によっては、溶け込む魔法が強く働きすぎてしまうのかもしれない」
「その魔法、ちょっとの間だけ解いておくことはできないの?」
「無理だよ。人間の方が勝手にかかっているんだから」

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