stingyっていう単語を今日覚えたんだ。「ケチ」。
もうひとつ、「吝嗇」という日本語も。「ケチ」。
書かれた文字を見て私はこの言葉の存在を知った。言葉があるからには、この単語を使う人がちゃんとどこかにいて、私が「吝嗇」を「stingy」と訳したら、ちゃんと意味が伝わるのだろう。
使っているうちに言語は自然に身についていく。こんな言葉で伝わるのだろうかという半信半疑が確信に変わる。不思議だね。
“Why do you like English?”
英語が好きかどうかなんて、今ではあまり考えなくなってしまっている。読もうと思ったら読むことができる。書こうと思えば何とか意味のある文を作ることができる。身についた能力は空気のようにそこにあって、だからもう、自分と英語を切り離して考えることなんてできないんだ。
といかにも英語を使いこなせます、みたいに書いては見たものの、実のところ、私が自由に使えると思っている英語は、実は限られた狭い範囲でしかない。知っている場所だけを忠実に辿っていくことはできるけれど、一旦そこからはみ出してしまえば正しいかどうか自信がなくなる。私はネイティブではないから。
私にできるのは自分が通ってきた道を、これから通ろうとする者たちに示すことくらいだ。知らない道は教えられない。当然だけど。
例えば、be動詞と一般動詞の使い分け。かつて自分自身も苦しんだはずだ。なのに今では忘れてしまっているんだからね、こんな簡単なことがなぜあんなに難しかったんだろうって。
毎日難しいなあと思っているよ。英語を教えることは難しい。
今の私が「難しいなあ」と思っていることもきっと、数年後にはお茶の子さいさいに変わるのだろうか。ちょっと信じがたい。
さて、質問をされていたのだった。
“Why do you like English?”
いつから私は英語を好きになったのだろう?
そもそも好きなのだろうか。ただ選んできた結果、それなりに英語に馴染んだ人生を送ってきたというだけだ。
ではなぜ英語を選択してきたのだろう?
別に英語でなくてもよかったんだ。国語でも数学でも理科でも社会でも?
他より少し得意だったから。それに、少しは好きだったんだ、たぶん。
英語から翻訳された物語を読むのが好きだった。
読んでいて笑える面白さがあった。映画を見ているみたいなテンポのいい会話。皮肉。ユーモア。ユニークな表現。もちろん日本の小説にもノリのいいやりとりや個性的な描写ってあるけどね。映画をほとんど見なかった私は読むことを通してそれを知った。それがたまたま英米の児童文学だった。
例えば物語に登場する高校生たちが制服ではなくTシャツやジーンズで学校に通っていたり、貧しい人たちに食べ物を提供するボランティアに参加していたり、あるいは変わった食べ物を食べていたりする。フィッシュアンドチップス、豆の缶詰、オートミール、医務室で巨大なチョコレートをハンマーで砕いて配るのは、ホグワーツ以外ではあまり一般的ではないかもしれないけど。
そして、通貨や、重さ長さの単位も日本と違う。ドルやセント、ポンド、フィート。カタカナで表記された外国語の響き。それらを当たり前のように使って生活している。自分と違う「当たり前」があることにわくわくした。
英語で読めるようになったらいいなと思った。英語を使って生活している人たちの、その感覚を知りたかった。
それは私の原点と言えるんじゃないかな。
今でも英語はやっぱり難しいんだ。それでも知らない単語が知っている言葉に変わる時、ほんの少し、世界の見え方は変わる。「吝嗇」と「stingy」という別の角度から「ケチ」を見れるようになるってこと。
どれだけ辞書を引いても知らない単語はなくならないし、ネイティブの話す英語との間には遥かな隔たりを感じ続けることだろう。それは、自分の語彙がまだまだ増え続けることができるという証拠だ。どこまでも上達していける。だから、勉強し続けたいと思うんだよね。