小学生だった時、同じ学年の女の子にめちゃめちゃよくできる子がいた。本当にできるのだ。なんでも。
水泳も勉強も走るのも、全て1番をかっさらっていく。毎年学級委員をやっていた。学芸会では主役を務め、合唱コンクールの指揮を務めた。卒業式の答辞にその子が選ばれれば、誰もがその役に相応しいと認めた。
小学校高学年までは髪を長く伸ばしていてお団子スタイルにしていた。頭の上でふたつ結ばれた丸いお団子は、水泳の帽子にも給食当番の帽子にもすっぽりしまい込んでしまうことができた。私がかぶればどうしようもなくダサい帽子でも、彼女の頭の上では不思議とカッコよく見えたものだ。
何を着ても、絵を描いても、作文を書いても、歌を歌っても、すべてさまになる。
完璧な人間がいるとしたら、その子のことだと思う。例えば、「不要犬ポストに賛成か反対か」というディベートの授業では、彼女の述べる意見に誰もが説得された。いつもみんなの中心に彼女の姿があった。
みんなからは「ふうちゃん」と呼ばれていたけれど、私はとても恐れ多くて呼べなかった。
ある時たまたま新聞の折込チラシに彼女の写真を見つけた。塾の広告だった。写真といっても小さなものだ。他のたくさんの生徒と並んでいるのに、彼女の顔写真とコメントだけがひときわ際立っているようだった。
私はその広告を切り抜いて筆箱にしまい、常に学校で持ち歩いていた。チラシで見たよ!というのをきっかけになんとかして彼女と話したいと考えたのだ。
もし時計の針を巻き戻して昔の自分に会えるなら、すぐにやめるよう忠告する。そんなストーカーまがいなことをしていたら、きっと気持ち悪がられてしまうよ、って。でも当時の私にはそのような意識が欠如していた。
結局、筆箱のチラシの切り抜きは永久に日の出を見ることなく終わった。「ふうちゃん」に話しかける勇気が持てなかった。
あの塾に私も通っていたら、私も彼女のようなスーパーガールになれたのだろうか。
いや絶対無理だな。
誰にも手の届かないところに彼女はいた。たぶん、ずっと遠くから見ていたから、いつまでも憧れのままだったのかもしれない。
私は自分が「ふうちゃん」のようには決してなれないことに、失望していた。勉強も運動もずば抜けてできるわけではなかったし、絵も習字もパッとしなかった。かわいくもなければ、話すのも下手だった。勇気がなく、引っ込み思案で、行動ものろい。「ふうちゃん」にはたくさん友達がいたけれど、私の友達は少なかった。
でも、たったひとり、私には親友がいた。彼女にもまた人を惹きつける魅力があった。「ふうちゃん」とはまた違った魅力だ。
私の親友は背が低くて、足はかなり遅い方だった。あまり速いわけでもない私の足を羨ましがっていたくらいだから。
私は彼女の髪が羨ましかった。赤みがかった茶色がすごく綺麗だったのだ。長く伸ばしたふさふさの髪をいつも後ろで結んでいたのが、オオカミの尻尾のようだった。
彼女はよく私に言った。「キミみたいに頭がよくなれたらいいのにな」
そう言われると変な気持ちになったものだ。私は自分のことを頭がいいと思ってはいなかった。頭がいいのは「ふうちゃん」みたいな子じゃないか。
けれども、親友とテストの点を見せ合いっこすると、明らかに差があることに気づかないわけにはいかなかった。
「え、30点?なぜそんな点なの?」
逆に不思議だった。自分のテストにつけられた70点を、誰でも普通にとるものだと思っていたから。
それでも、その子を前にしたら、足の速さやテストの点なんかなんの価値もなくなってしまうのだ。彼女には敵わない、と思う瞬間が度々あった。
例えば、またディベートの授業を例に引くことになるんだけど、
“ある国では公共交通機関へのドリアンの持ち込みを禁止する法律がある。ドリアンはめちゃくちゃひどい匂いを発するので、周りのみんなの迷惑になるからだ。もし違反した場合は罰金を払わなければいけない。日本でもそのような法律を作るべきか否か”
ほとんどの人が法律を作ることに賛成していた。法律で取り締まった方がより良い社会になるだろう、という考えがクラス全体で優勢となっていたその時、先生は私の親友がプリントに書いた答えに目を留めた。
「この意見、みんなに発表してくれるかな?」
先生が言って、彼女は立ち上がった。
「一人一人が気をつければ、法律を作る必要はないと思います」
それを聞いて私は、「あ、私もそれを言いたかったな」と思った。そんな風に、彼女は誰にも思いつけなかった「正解」をパッと口に出して言うことができた。どちらかといえば積極的に意見を言うタイプではなかったけれど、しっかり自分の芯を持っている子だった。
そんな彼女と友達でいることは喜びであった反面、悔しくもあった。自分が取るに足りない、ちっぽけな人間であると思い知らされた。集団の中で私は簡単に大多数の意見に流される。不要犬ポストに大反対なのに、賛成派の主張に対して何も言い返すことができない。
人と自分を比べては、自分が他の誰かのようには決してなれないことを嘆いた。できることなら自分ではなく、他の誰かになりたかった。
なぜ人によって差があるのだろう。私の届かないようなはるか上をいく子もいれば、逆に勉強がとにかく難しい子もいる。違いなど初めからなければ幸せなのに、とさえ思えた。
でもやっぱり、誰にでも個性はあるんだよね。それに気づいたのは、ずいぶん後、大人になってからだ。
他の誰かになりたいだなんて、無理な相談だよね。私が描く絵は私以外の誰にも描けない。私にしか書けない文章がある。たとえ大多数の中の1人であっても、他の誰とも同じではない。
そして「正解」なんてどこにもない。完璧な人間も、どこにもいない。
「ふうちゃん」にも、かつての親友にも、大人になってからは会っていない。彼女たちは今どんなふうに生きているのだろう。どんな大人になったのだろう。
小学生のあの頃はただ圧倒されるばかりだったけれど、今の私なら、もう一度新しく友達になれるような気がする。あんなに遠い存在だったあの子にも、習字や水泳のやり方を聞いたら教えてもらえそうな気がする。今なら私は自分の意見を持って、親友と向き合うことができる。それだけの経験をしてきたんだ。
あ、まだ途中だった。2人で書こうと約束していた小説の続きは、今から書くのではもう遅いんだろうか。
既に大人になってしまった今では、どうやって友達になったらいいのかもうわからない。