ひ孫のプライド、のようなもの

マフラーを編みはじめた。

押し入れを探すと、高校生の時に編んでいた残りの糸が見つかった。
アルパカベビー。たなびく煙みたい。白なのかベージュなのか、でもうっすら紫にも見える不思議な色だ。クリクリ縮れているため、ちょっと編みにくい。でも慣れれば大丈夫。

マフラーの編み方は単純だ。同じ動くをひたすら繰り返せばいい。針をくぐらせて、糸をすくって、引っ張る。
単純なのに、奥が深いんだよね。急ぐと編み目がきつくなる。緩すぎても良くない。穴があく。
一定のペースで、同じ強さで、手を動かし続ける。編み物は癒しだ。
今編んでいるのは、スヌード。輪っかになっているタイプの襟巻き。ちょっと緩めに編んで、伸び縮みする余地を残しておく。
だからこんなきつきつに編んではいけなかった。やり直しーーー。

上達するコツは?
と聞かれたら、納得いくまで何度もやり直すことだと答える。最初からきれいに編めたわけではない。一番最初に編んだのは、犬の腹巻きだったと思うけど、一段一段で幅が変わるわ、目の数が増えたり減ったりするわで、散々な出来だった。
「どうしたらいい?」とばーちゃんに見せに行った。そしたら解き直しなさいときた。せっかく編んだからもったいない気持ちにもなるのだけれど、やり直した方がやっぱりすっきりするんだよね。

人間関係って、編み物に似ているかもしれない。こじれたところをそのままにしてしまえば、ずっと消えずに残り続ける。気にしなければそれでいいんだけど、放っておいても直らないから気になっちゃうんだよなあ。
どこにほつれがあるのか良くわからない時は厄介だ。マフラーのように全部解いてやり直すことができればいいのに。
辛抱強く向き合い続けたのなら、あるいはいちからやり直すような新しい気持ちで向き合ったのなら、人間関係もいつか上手になる日が来るのだろうか。
どうしてもうまくいかない時はある。例えば糸が絡まってしまった時、仕方ないからハサミで切った。

編み物が得意なのはひいばーちゃんだった。ひいばーちゃんが編んだセーターを私の叔母が着て、母が着て、今私が着ている。ずいぶん長持ちするものだ。
私の母は手芸好きなくせに何事も長続きしない性格をしている。編み始めてしばらくすると放っておかれるそれを、拾い上げて最後まで編んで完成させるのはいつもひいばーちゃんだった。
私が編み方を聞きにいくと母がぼやいた。
「ひいばーちゃんだったら、長さから目の数を割り出して、何段編んだらいいかまで計算できたのになあ」
いいや。適当に編んでちょうどいい長さで完成にすればいいさ。計算なんて面倒くさいことは私はしない。

「あんた、ひいばーちゃんにそっくりだね」
と母に良く言われたものだ。食事の時、漬物やおかずをご飯の上に並べておく癖が、ひいばーちゃんにもあったらしい。
大正時代の人らしく、なんでも無駄なく使った。洗い物をするときの水も、少しでも無駄なくしようと工夫していた。
だよね!必要以上に使ってももったいないだけじゃん。

「似ている」と言われるのは悪い気はしないものだ。たとえそれがケチくさい性格だったとしても。
ひいばーちゃんの記憶は私にほとんどない。もっぱら語り継がれる話の中でイメージが作られている。
ひいばーちゃんのことを思うと、マフラーを最後まで編まなきゃいけないなと思う。なんとなく。

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