本が与える影響

ショッピングモールをぶらぶらしていた時だった。天然石のアクセサリーが並べられた棚が目に入った。特に欲しい気持ちはなかったけれど、心の中で「!」って思った。

そういえば、名古屋駅に天然石のお店があった。何回か通っても、いつも行き方を忘れてしまうんだ。地下鉄の改札を少し行って、短いゆるいスロープを上るか下るかした先にそのお店はあったはずだ。
記憶にある駅の様子は様変わりしていた。いつのまにか。変わったことにも私は気づかなかった。関心が向かなかった。
地下街に入っていた店は一体どこへ行ってしまったんだろう。今の今まで少しも思い出さなかった。

500円+税の値段でクリスタルを買ったのを覚えている。消費税がまだ5%だった時代だから、525円に違いない。子どもの小遣いにとっては大した買い物だった。
五角形の鉛筆を親指くらいに太らせた形をしていた。先っぽはしっかりとんがっている。透明だけど、根本がギザギザにカットされていたせいで、どんなふうにも見えた。レインボーが入っていると言われたらそんな気がしたし、この傷はファントムではないかと言われたらそうかもしれないなんて思えた。
石に詳しい友達は「ファントムじゃないか」と言っていたけど、それはないだろう。第一、ファントムだったらもっと高いはずだ。
ファントムとは透明なクリスタルの中に成長過程でできる模様だ。とんがった頂点の形が白い縞となって残ると、まるで2つのクリスタルが重なっているように見える。
子どもにはファントムの見分け方なんてよくわからないもので、自分の持っている石をなるべく珍しいものに見せようと、あれこれ付加価値をつけたかったのだ。
クリスタルは濁りのない透明なものがパワーが強い。透明の中にも「レインボー」が入っているものがいい。本当かどうかわからないけど友達との間では、そういうことになっていた。
アメジストに黄色の差し色が入っていれば「アメトリン」になる。これは本当だ。アメジストとシトリンが合体した鉱物が実際に店で売られているのを見た。

石には不思議な力がある。という本を読んだ。カラー写真付きのパワーストーンの図鑑みたいな本。
石の名前の由来から産地、歴史上での扱い、硬度、取り扱い方まで詳述されている。さほど分厚い本ではないのに、何度読み返した。その都度、新しい発見があって飽きなかった。
石の持つパワーについても、筆者のエピソードを交えながら詳しく書いてある。恋を叶える、金運をもたらす、洞察力をもたらす、などなど。
本にはそう書いてあるけれど、私自身はこれといって効果を実感した経験はない。というよりも石の力があったとしても、石は石じゃないか。結局は自分次第だと思ってる。

でも石は確かに生きている。ある時、ホークアイを「浄化」した。
キャッツアイは見たことあるかな?猫目石とも呼ばれる、光の加減によってちらちら輝きが移動して見える石。赤、黄色、緑、人工的に作られているものもある。
タイガーアイは?茶色に金色の縞が光る。金運にいいとされる石。
ホークアイは、黒に近い紺の地に青い帯状の輝きが移ろう。
どこか旅行に行った時、お土産に買った。すぐに、そのホークアイの真ん中に別の種類の鉱石が紛れ込んでいることに気づいた。茶色がかった赤い色をしていた。青いホークアイの表面についた汚れみたいにも見えるけど、買った時はなんとも思わなかったんだ。
店頭に並ぶまでに石はたくさんの人の手を渡ってくる。その過程で悪いものを吸い取ったり、石のパワーが弱まっていたりする。だから浄化が必要なんだ。
石の種類によって方法が変わる。綺麗な水で洗う、セージやヒバのお香で燻す、日光に当てる、月光浴させる、などなど。そういうことも全部本に書いてあった。
月の綺麗な晩、庭のもちの木の根元に置いた。どっしりした枝が木登りに最適だった。木と月光と地面と夜の清浄な空気と、何がどう作用して石を変容させるのかわからない。けれども、自然の中で人間が息抜きをするように、石も自然からエネルギーをチャージするのだろう。
翌朝、ホークアイを手に乗せてみると赤茶の部分が銀色に変化していた。
ヘマタイトという石がある。「ヘマ」というのはヘム鉄、鉄分を含んでいる。表面はメタリックな銀色だけど、中身は血のような赤色。磁石みたいにくっつく性質がある。
つまり、ホークアイの中にヘマタイトが隠れていたんだ。でも驚いた。一晩で石の見た目が変わってしまったことに。
その時から、石には意思があるということをなんとなく信じている。

中学生まではたくさん石を集めることに夢中になった。星空のようなブルーゴールドストーン、「インド翡翠」とも呼ばれる青緑色のアベンチュリン、針がたくさん入ったルチルクォーツ。
特に大切に思っていたのが、あのクリスタルだった。お守り袋に入れて首から下げ、どこへでも持って出かけた。家族で海釣りへ行った時にも。波打ち際で袋から石をそっと取り出した。
海の水はクリスタルと同じくらい透き通っていた。手のひらの上で海水に浸しているうちに、透明の石はどこにもなくなってしまった。
まさか、海に溶けてしまった?
波が寄せては返す境目で目を凝らして探したけど、結局見つからなかった。
旅に出たんだ、と考えた。たぶん、私のところではもう用がなくなってしまったんじゃないかな。
地球の奥深く、気の遠くなるような時間を経て少しずつ成長した原石が、カットされ磨かれ人の手に渡り、そして今度は海の波に洗わながらどこか遠くへ向かうのだ。あるいは地中に還っていくところなのかもしれない。

高校生になると私は断捨離にはしる。そのきっかけとなったのは、『人生がときめく片付けの魔法』。
ときめかない服、ときめかない文房具、ときめかない本。なにもかも片付けると部屋はずいぶんすっきりした。
そうすると、無駄なものを買わなくなる。その時欲しいと思っても、いずれいらなくなるのが目に見えているなら、欲しくはない。
「ときめくか、ときめかないか」を取捨選択の基準にしようと決めていたけれど、いつのまにか「必要か、そうでないか」にすり替わっていた。
今の私は何にときめいているのだろう。

宝物だった石たちも庭に埋めた。もうときめかなくなってしまった。
昔から穴を掘るのは得意だった。これも本の影響かもしれない。
シートン動物記の中にキツネが巣穴を掘るくだりがある。穴からかき出した土は巣穴の入り口に山を作る。そうするとふかふかの土の表面から草が芽を出して、巣穴の入り口を隠してくれるから都合がいい。天敵のアナグマに容易に見つからなくなる。
もっとも人間の子どもが、自分が入れるくらいの大きさの穴を掘るのは無理があった。庭に掘るとまず怒られる。雨が降って水が溜まると蚊が卵を産むからやめてくれと言われた。公園の砂場でもダメ。「誰かが落ちたらどうするの?」
じゃあ、しかたないね。流石のシートンもキツネの巣穴の雨水対策までは書いていなかった。
石を埋めた穴は、これまでで一番深く掘った。どうせ埋めるならと、思う存分深く掘る。いつか穴掘りの好きな子どもが現れて宝を掘り当ててくれたらいいと思ったし、誰にも見つからないままそのまま埋もれていてもいい。今もあの辺に、子どもの頃の私の魂も眠っているんだと思うよ。

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