名古屋駅を歩くとすっかりクリスマス仕様だった。ライトアップされた巨大なツリー、天井を飾るイルミネーション。
「東京、横浜の駅よりも名古屋が一番好き」と彼女は言った。ヒロインの表情で。
彼女が主役でない映画なんて私には想像もつかない。
土日の昼間は行列になる店が、平日の夜には空いていた。静かな店内で鈴を鳴らすと店員さんがやってくる。
「息子が見たら喜びそう。車が好きだから」
夜景を眺めて彼女が言った。大通りを途切れなく光が流れていく。
たくさんの物事が目の前を通り過ぎていった。でも今彼女は私の目の前にいる。
「結婚おめでとう」
それを言いに来てくれた。
結婚を決める上で大切にしたい条件を前に聞いたことがあった。彼女はコミュニケーションを大事にしていた。思考レベル、日本語レベルが合う人を相手に選んだ。
私は内心たじたじとなる。こうも明確に考えを言葉にされると、自分の中になにも外に出せるものがないような気がしてくる。
いや、あった。
「言葉に頼らない」と私は言った。
私とパートナーの間には言葉はあまり重要ではない。面と向かって話すよりも、ふざけている時間の方が長い。ボクシングの練習とかマッサージとか、拳と肌で語り合う。
「旦那のどんなところがいいの?」と彼女は聞く。
「気持ちが安定しているところ。私が怒っている時でもニコニコしながら話しかけてくる」
鈍感なのか能天気なのか。でもそういうところにとても助かっている。
自分の機嫌を自分で取れる人、と彼女は表現した。そう、その通りだ。
そうやって話した後うちに帰ると、パートナーのことがいつも以上に素敵に見えてくる。単純なものだ。
それから教員を辞めたことも話した。
彼女は実は高校3年になるまで教員になりたかったと言った。進学する大学も教育大学に的を絞って受験勉強をしていた。
突然の方向転換。きっかけは学校の避難訓練だった。
「私は自分が一番可愛いから、他人の命を優先することはできない」と言い切った。
そんな風にはっきり言える方がむしろ潔くてカッコいい。
過ぎ去った過去のことを私はそこまで鮮明に覚えているだろうかと考えた。学校の避難訓練なんてほとんど記憶に残らない。「おはしも」を暗唱させられ、放送で一斉に机の下に潜る。それから運動場まで静かに早歩きで移動する。頭の中に知識としては残っていても、その時どんな匂いがしたか、誰がそばにいたのか、自分がどんな表情でいたのか、まったくと言っていいほど覚えていなかった。
私の覚えていることは…。
「大学3年の時、先輩から『学校の先生になるのはどう?』と言われた」
聾学校に初めて足を踏み入れた日だった。応対してくれた先生のことも覚えている。声のでっかい体育の先生だった。日焼けした顔にやさしいしわが刻まれていた。
「空からピカーと天啓が降りてきたように」と彼女は言った。
そうだそうだ。私も同じ感覚だった。
運命の声を聞いて彼女は教員になることを選ばず、私は選んだ。その結果どうなったか?
人生というものはわからないな。
今の仕事について。
いま私は会社で事務の仕事をしている。書類のファイリング、配布物や郵便物の仕分け、データ入力。はっきり言って誰にでもできるような仕事だ。私がいなくなれば、いとも簡単に誰かに取って代わられるだろう。
こんな仕事に意味があるのだろうかと思いながら、毎朝新聞を新聞ばさみに挟む。たったひとりを除いて、誰も読んでいるところを見たことがない。読まれないまま日にちの経った新聞たちを紐で縛って捨てにいくのも私の役目だ。会社として新聞をとっているということに意味があるのかもしれないな。廃れつつある活字文化を維持することに貢献している?
「このままでいいんだろうか」
障害者雇用とは一体何なのだ。読まれない新聞のようにただ置いておくために、私は存在しているのではないぞ。
一方で、彼女は私と異なる悩みを抱えていた。
「障害者採用の業務は属人化する傾向がある」
採用担当のポジションを代わりたくても、知識のある人がいないからなかなか難しいという話だった。
「特定の誰かがいなくなっても組織が機能していくためには、誰でも同じように仕事ができる仕組みを作るべき」
なるほど。「誰でもできる仕事」と「その人にしかできない仕事」は、どちらか一方だけでは苦しくなる。うまくバランスを取っていかなくてはならないのだなと思った。
「ラリー、って何?」
車の競技らしい。世界大会が豊田で開かれる。知らなかった。
「これからテレビを見て応援するんだ」と彼女は熱く語った。目がキラキラしていた。
私は、ぽかーん。車の何が面白いんだか。彼女と車。その組み合わせはなんだか新鮮だった。
「興味ないとそういうものだよ。はちまきにとってのボクシングと一緒」
納得。
学生だった頃からもう4年経つんだな。会わない間にこうも正反対な歩み方をしていたのかと驚いた。ネガとポジのようにそれぞれの人生が反転する。
全然違うのに根っこのところでは分かり合える。不思議な感覚。
別れた瞬間からもう再会が待ち遠しいよ。
彼女に恥じない自分でありたいと常に思う。