白河三兎『私を知らないで』

全部のシーンが好き。

高野と「僕」が渋谷に向かうキヨコを尾行する場面。
キヨコにおにぎりをもらう場面。
「僕」がアヤに別れを告げる場面。
キヨコがミータンに勝負を持ちかける場面。
「僕」が父さんとラーメンをすする場面。
屁理屈ばっかり言う父さんのことがすごく気に入ってしまった。本当の父親でなかったならば、親子であんなふうに心からの言葉で会話できるのだろうか。

中学生。私はタフなわけではなかったが、いつも教室でひとりだった。
同じ学年に2人親友がいたけれど、ひとりは不登校になってしまった。もうひとりはクラスが別だった。「髪を切られた」と言っていたのを覚えている。いじめがあった。教室で居心地の悪い思いをする者同士だったから、私たちは友達になれたのだろう。
教室とは嫌な場所だ。弱い者を笑いものにし、強い者には媚びへつらう。
私は違う。そんな人たちの仲間にはなるものかとひとりでいることを選んだ。他人を見下しているつもりでも、心はいつも怯えていた。何かの拍子に人から話しかけられたりすると恐怖を覚えた。
家でも貝のように黙りこくる。それが私の反抗期だった。とにかく、喋りたくないのだ。誰とも。
頼むから放っておいてくれ。毎日息を潜めるようにして過ごしていた。

キヨコは教室が怖くなかったのだろうか。
単身世帯であるとか、親がいない子どもは、誰かに頼らず自力で何とかするという強さを身につける。
「タフな子に憧れる」という「僕」の気持ちが私にもよく分かる。負けない強さが欲しいんだよね。自分を守れるだけ強くなりたい。
キヨコはモニター荒らしをして稼いだお金で美味しいものを食べたりおしゃれを楽しんだりする。高級フレンチを味わって涙を流すのだ。
「せっかく生きているんだから、何でもやってみたい」とキヨコは言う。
なんて不憫なんだ、と私は感じてしまう。いつかの、ラスカルの皿を思い出す。ひとりで満たされる幸せ。
キヨコは自己完結して生きている。誰かが彼女に幸せを運んできてくれるわけではない。自分で自分を幸せにしてあげなきゃいけない。

3人とも罪の意識を抱えていた。キヨコも、高野も、「僕」も。
普通に生活していて、自分のことを「穢れている」と考えることはあまりないだろう。誰かを見殺しにしてしまったとか、愛する人に罪を犯させてしまったとか、そういった経験が彼らにはある。忘れたふりをしても傷跡はずっと残っているものだ。
心に負った傷を乗り越えるには、ひとりでは難しい。たとえ他人が犠牲になっても、「あなたが助かってよかった」と言ってくれる誰かが必要なのだ。

今日も私は学校の夢を見た。夢の中ではいつも学校にいる。自分が生徒でいることもあれば先生の時もある。いずれも私は無力だ。苦しんでいる子を救えない。何もできずに自分だけ逃げた。
悪夢につきまとわれながら、それでも前を向いて生きていかねばならない。私の幸せを望んでくれる人がいるから、そのために私は生きている。

最後に、アヤの言葉に救いを感じた。
「自分が恵まれていると感じる人は他人に優しくしてほしい。自分が恵まれていないと感じる人は、それでも他人に優しくしてほしい。そうすれば世界は少しずつ良くなっていくと思います」
偽善なのか。自分の罪悪感を打ち消すためなのか。
「かわいそう」だから?それは上から目線じゃないのか。
そんなことどうでも良くて、目の前に苦しんでいる人がいたら優しくすればいい。
私にもできるの?
私は何もできなかった。どうにもならない現実から目を背けていたい。
「自分にできることをすればいいんだ。簡単だよ」と父さんは言った。
そっか。
優しさが、少しずつ世界を変えるんだな。

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