石井東吾『隠と陽 歩み続けるジークンドー』

クラスノヤルスクに住んでいた頃のこと、ブルース・リーカフェというものがあって、一度行ったことがあった。階段になっている入り口を降りていくと、洒落た空間が現れる。ブルース・リーのポスターや写真が貼られている。ブルース・リー好きでなければ別段何ということもないカフェだ。7年前と変わりなければ、街の中心のミーラ通りに今もあるはずだ。
ブルース・リーの映画を私は見たことがない。ジークンドーの創始者だということも知らなかった。
「ロシアでもブルース・リーは人気なのか、ふーん」と、冷やかしにカフェを訪れただけだった。その7年後、一冊の本を読み終わって俄然興味が出てきた。
「隠と陽」とは?
「水のようになれ」とは?

武術に「脱力」が必要であることを初めて知った。
目下私が学んでいるのはジークンドーではなくクラヴマガだけれど、パンチやキックといった基本的な動きには共通するものもあるのではないかと思う。
試しに脱力を意識して打ち込んでみる。おお。いつもと感覚が違った。パンチが「飛んでいく」。キックも、力任せに蹴るんじゃない。膝を持ち上げたら膝から先は力を抜き、慣性に任せて蹴り上げる。すると、ヒュッ!意識して動かそうとするよりも力を抜いた方が速く蹴れる。
「脱力」ってこういうことか!今まで余分な力が入ってしまっていたんだな。
いやいや、こんな簡単にわかるものでもないだろう。もっと奥の深い「脱力」があるに違いない。
もっと色々やってみたい。YouTubeを見てはあれこれ試している。フットワークの練習も始めた。 「一にフットワーク。二にフットワーク。三、四がなくて五にフットワークを練習せよ」とブルース・リーは言った、と石井先生は言っている。読んだらいてもたってもいられなくなった。クラヴマガで教えてもらったファイティングスタンスをする。利き足前のジークンドースタイルではなく、利き足を後ろに引いた普通のボクシングでやる構え。前に。後ろに。横に。レッスンでは先生の号令に従ってみんなで一斉に動くけれど、いざひとりでやってみると自分のフットワークがダメダメだと気づいた。素早く動こうと意識するあまり、足が強張る。居着いてしまう。
2年半も続けていれば身に馴染んでいるものと思っていたけれど、やってみるとなかなか難しい。1人で練習する時間も必要なのだなと気付かされた。

達人の域にはとても及ばない。本の中で書かれているように、足の皮が剥けるまで、あるいはうっかり顔に打撃が当たって鼻血を流すほど(怖っ!)、そこまではとてもできる気がしない。それでも、自分にわかる範囲、できる範囲を少しずつ広げていきたいなと思う。決して手の届く場所ではないとわかっているが、手を伸ばして近づけるところまでは行ってみたい。
思えば今まで私は「教えてもらうこと」しか知らなかった。クラヴマガのレッスンではインストラクターさんが声をかけてくれて、アドバイスをもらうと確かに打撃が改善される。私のダメなところは、声をかけられるのをただ待っていることだ。自分からどんどん聞くのができない。「質問ある?」と聞かれても一つも思いつかないのだ。先生のことは尊敬している。何か、何でもいいから聞かせて欲しい!という気持ちはめちゃくちゃあるけど、何をどう聞いたらいいのかわからない。
カウンターの練習の時でもなく、背後からの首締めやベアハグを解く練習の時でもなく、帰り際が一番緊張する。練習の時には言葉はほとんどいらない。だから気は楽だ。「ありがとうございました」と言い残して、結局いつもいつも聞けないままスタジオを後にする。
当たり前だ。私は自分では何も勉強していなかった。格闘技についてどんな風に語っていいのか、言葉を知らなかった。
この本は、そんな私の「聞きたい!」という気持ちにすごく答えてくれた。勉強しよう!と決意した。YouTubeを見て、取り入れられそうな方法は実践してみる。人に聞くより前にまず自分の中で対話してみたら一歩踏み出す勇気が持てるかもしれない。

本を読んでいて思ったのは、石井先生は人からすごく愛される人なんだなということだ。
お師匠さんとの、また、お弟子さんとの関係性が読んでいてグッとくる。「先生なら超えられます」と、弟子に言わせる何かを石井先生は持っているのだと思う。それはジークンドーでの人間関係だけにとどまらず、会社員として働いていた時のエピソードにも表れている。
ひとりの人間の人生がぎゅっと詰まったような本だ。お師匠さんからの教え、お師匠さんのさらに向こうのブルース・リーの存在。石井先生の言葉で語られるジークンドーはまさに生き方そのものなのだなと思う。

「武術とはこういうものだ」とは決して言い切れないが、武術とは、修行を通じて自分自身を知り、自分以外の関わりについて学んでいくことだと僕は思う。わからないこと、知らないことを知り、探究していくその道のりを、僕はずっと楽しんでいる。

「武術」を別の言葉で置き換えても成り立つ文章ではないか。武術には師がいて、常に先へと道が伸びているようなイメージがする。どこまで行っても終わりない研鑽の道。つまり、修行なのだ。
それは武術に限ったことではなくて、何事も修行として向き合うことが可能だろう。石井先生は会社の仕事で試練にぶち当たるたびに、それを「修行」として捉えていた。
人それぞれ人生があり、武術に携わる人もそうでない人もそれぞれの道を歩んでいる。どんな道もずっと先へと続いている。どれくらい遠くまで行けるかは、「目指すものを持っているかどうか」、それが違いを生むのではないか。

石井先生にとってのジークンドーは、私にとっては何だろう?
こういう時、どうしても自分の身に置き換えて考えてみたくなるんだよね。そうしないとちゃんと理解できたような気がしない。
やっぱり書くことだ。私に書けるものって何だろう?私だから書けるものって?
石井先生のような夢を叶えるストーリーにはすごく憧れる。眩しくてたまらない。こんな物語を書けたらいいなとは思うけれど、私が自分の経験から書くとすれば挫折の物語だ。誰が読みたいと思うだろうか、いやはや。
でも書いてみたいと思うから、書くよ。
書くことは修行だ。書くこと以外も、もちろん書くための修行だ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。