「あの男はとっくに死んでいる」と、親の死に目に会うことを避けようとする蒔野。
夫を殺した倖世は夫の霊に取り憑かれ、自分の中に殺した夫が「いまなお生きる力を持っている」という言葉に動揺する。
まだ生きている人間が死んだことにされ、死んだはずの人がまだ生きている。
人は簡単に存在を否定する。
「神様なんていない」
「おれの中にお前の存在は、ない」
一方で、人は「愛」を信じることができる。
不思議な生き物。
生きている、存在だ。
でもどうせ100年、200年後には私を覚えている人はいなくなってしまうんだから。誰からも忘れ去られてしまう。
そう思わずにはいられなかった。
きみのこともね。私が生きている間しか覚えていられないよ。私や家族がみんな死んでしまったら、この世界にちっぽけな犬が1匹、生きていたことなんて誰にもわからなくなってしまう。きみがどんなにいい子だったか、私がどんなにきみのことを大好きだったか、知る人は一人もいなくなる。
それを思うと、「悼む人」のやっていることって何の意味があるのだろう?
死者を訪ね、その人が誰に愛されていたか、どういった人を愛していたか、どんなことをして、人に感謝されたことがあったか、記憶に刻む。それを延々と繰り返しながら日本中を歩いて旅していく。
彼にとっては、「悼み」そのものが生きるということなのだろう。彼の命を死者を記憶するために使っている。
そんなことをしても、どのみち限界があるじゃないか。「悼む人」が死んでしまったら、それまで記憶してきた人々は全て忘れ去られてしまう。
まるで小さなボウルを使って海の水を汲み出そうとするような、一見絶望的な行為に思える。どんなに掬い出したところで、死者の数は日々増え続ける。汲み出す人がいなくなれば海の水は元通り。「悼む人」がいてもいなくても結局は同じではないか?
けれどもそんなことはなくて、「悼む人」が話を聞くことで、人々の中で忘れ去られようとしていた記憶が息を吹き返すようなこともあった。死者について思い出話をする機会を作っている。
反対に、残された人々の気持ちをかき乱すような存在でもある。死んでしまった人のことを思い出したくないと思っている人も少なくはない。そういう人たちは、死者に対して悲しみや憎しみの記憶を持っている。
「死んでしまった後も、残された人々の記憶の中に生き続ける」。そういう言い方もされる。いい記憶であれ悪い記憶であれ、思い出し、語り継ぐことで、ずっとずっと存在し続けていけるものか。
「肝心なのは、あなたに静人はどう映りましたか、ということではないでしょうか。蒔野さんがどう生きられようと、その理由より、人に何を残すかに、蒔野さんの存在はある。
その人との出会いで、わたしは何を得たか、何が残ったのか、ということが大切だろうと思うんです」
それぞれの人の生き方それ自体が、関わる人に影響を与えている。死んだ後も何かを残していく。
一歩一歩確かめるようにゆっくり歩いていく「悼む人」は、確かに何かを残している。
私は時々考えることがある。「今自分が死んでしまったらどんなふうに、生きている人たちの記憶に残るだろう?」と。
家族や友達一人一人を思い浮かべる。悲しんでほしい?いや、悲しまないでほしい。
「どんな人に愛されて、どんな人を愛して、どんなことで感謝されたか」
それだけ覚えていてくれたら、ああ、幸せだなと思うよ。
そしてもし誰か私の知っている人が亡くなったら、そういうことを覚えていたい。つまり、嫌な真実から目を背け、人間の美しい部分だけを記憶していたいということか。
私は、私の父方の祖父のことを覚えている。亡くなる少し前に病院にお見舞いに行き、少し言葉を交わして手を握った。なんて弱々しい手なんだと感じた。
初めて会ったのは、私が小4の時だったか。私の両親の結婚に反対した人。だからそれまで「いないこと」にされていた。「お父さんはコウノトリに運ばれてきたんだよ」と聞かされていた。
父は祖父のことをどんなふうに記憶しているのだろう。もしずっと仲違いしたまま終わってしまった関係だったら、今と違った記憶のされ方をしていたに違いない。多分私は祖父母に一度も会わないまま、存在を知らずに生きていただろう。父がコウノトリに運ばれてきたということを信じてはいなかったにせよ。
蒔野と父親の関係は、私に自分の父と祖父のことを思い出させた。
「死ぬ前に、生きているうちに会ってほしい」と槙野と父親を会わせようとする、理々子の必死な気持ちが伝わってくる。死ぬ前に仲直りできなかったら、さぞかし無念だろう。
不思議なもので、死んだ人の思いが生きている人に伝わることもある。でも逆は?
だから人は、「残されたもの」を何か大事にしなくちゃという気持ちになるんだろうな。
人はただ生きて死んでいくだけなのか。そんなことはないと私は思っている。
誰かを大切に思ったり、誰かから大切にされた記憶。それがたぶん、「愛」というものだ。人から愛されて、人を愛して、その人たちが死んでしまって、彼らが生きていたことさえ忘れ去られた後でも、きっと「愛」は残り続ける。そんな気がするんだ。
ちょっと待て。愛ってなんだ?
人は愛を疑う。自分が「愛」だと信じているものに、自信が持てなくなる。
そもそも「愛」を信じない人もいる。愛なんて、人やモノへの執着にすぎない。人間の命はゾウリムシが生きているのと何ら変わりない。そう考えた甲水は死を願った。
私自身、「それは愛ではない、ただの執着だ」と面と向かって言われたら、何と答えていいのかわからないよ。
蒔野は週刊誌の記者をしていて、性と血の匂いたっぷりに原稿を書くこともあれば、反対に人間の繊細な心の動きを記事にすることもある。それでいて、どちらも同じ殺人事件を取り上げているのだ。
一つの事実でも受け取り方はさまざまであるように、同じ人の人生でも記憶のされ方は自由なんだな。出会った人の数だけ、各人の心の中に故人の姿が残される。「愛」というものもいろんな姿をしていて、そこから悲しみや憎しみが生まれることだってある。
何が本当なの?って言いたくなる。それは愛なのか。ただの執着なのか。
亡くなったあの人は本当はどういう人だったのか。
「悼む」って、死を悲しむことだと私は考えていた。或る人の死に対して心を痛めることだと。「哀悼の意を表する」とは、つまり死んでしまって残念です、と言っている。
まだ生きていてほしかった。
死なないでほしい。
大切な人なんです。
どんなにそう思っていても、堪えなくてはいけない時もある。例えばもし私の愛する人が私の元を去らなくてはいけなくなったら、引き止めることは愛ではないのだろう。
そういう気持ちは執着なのではないか?
私が死んでしまう時は、どうか悲しまないでほしい。事故にしろ、殺人にしろ、病気にしろ、寿命にしろ、自殺にしろ、死因はなんであれ死ぬ時は死ぬのだ。それは誰にも止められない、運命だ。
死んでしまったのなら、あまり悲しまないでほしい。Let me go.
逆に、「死んでしまった方がいい人間」なんて、本当にいるのだろうか。だから死刑があるのだろうが。
もし、誰からも愛されず、誰のことも愛さず、誰からも感謝されなかった人間がいたとしても、その人が生きていたことは事実だ。その人の人生を否定することはないじゃないか。「そんな人間、初めからいなかった」とは誰にも否定できない。ただ忘れ去られていくだけだ。
忘れていくこともまた、悪いことではないと私は思う。忘れてしまった方がいいことだってきっとある。悲しかったこととか、嫌だったこととか、思い出せないだけで忘れてしまったことは結構あるのだろう。
もしかしたら忘れ去られていくことで、「死んでしまった方がいい」と思われていた人たちはようやく心穏やかに眠ることができるのかもしれない。そんなふうに記憶されるのは誰だって嫌でしょう。
ひょっとしたら「悼む人」は、愛も憎しみもない無の世界に、抗っているのかもしれない。
彼は、或る人を唯一の存在として認識する。特別なひとりとして記憶する。そこに確かに生きていた、と覚えていてくれる。
最後に、お母さんがいるって、すごいことなんだなと思った。
どんな人にもお母さんがいる。誰でもみんなお母さんのお腹の中から生まれてくる。お母さんにとっては生まれる前からすでに、特別なひとりだ。
生きている時には忘れてしまっているけれど、生まれてきた瞬間が証明している。誰でもみんな、特別なひとりだ。
だから、泣けてきちゃうんだよね。どうして死の瞬間に、「きみから、うまれたい」なんて。その時になってやっと愛を信じられたのかな。