絶好の草取り日和だった。
もっと早くに準備をしていたけれど、アボカドの植え替えや何やらやっていたら、結局、8:00を過ぎてしまった。けれども心配したほど気温は高くない。
雨は夜のうちに止んだが、曇天。日差しが遮られてちょうどいい。しっとり水を含んだ地面からは簡単に草を抜くことができる。日照り続きではそうはいかない。数日雨が降らないと土はカラカラに干上がって、草の葉を引っ張っても地中に根っこが残ってしまう。
完全武装して畑に向かった。長袖長ズボン、足元は雨の日用のゴム長スニーカー。首には手拭いを巻き、麦わら帽子のつばには虫除けスプレーを吹きかけてある。両手には軍手。綿の白いやつではなく、園芸用の軍手だ。土にまみれて湿ってはいるが、これさえあれば毛虫をつまんでも怖くはない。頼もしい。
右手で草の葉を掴み、左手の横着鎌で草の根本を掘り起こすと、さしたる抵抗もなく草が抜ける。特筆すべきは、左利き用の横着鎌だ。鎌にも向きがある。大抵は右利き用に作られているが、ばーちゃんの家には左利き用が常備されている。素晴らしい。
ある程度草丈のあるものは、根も長く伸びている。塊になった土をゆすって振り落とし、桶に入れる。くたっとなった雑草が桶にこんもり山を作っていく。地面にへばりつくように生えた小さな草は土の表皮を鎌で削り取り、ひっくり返してぺたぺた固める。鎌が入って草がなくなった地面は掘り返されたようになっている。
ずっとしゃがんだ姿勢でいたので足が痺れてきた。立ち上がって位置を変える。再び鎌を振るい始める。
草の命のことはあまり考えない。雑草も野菜も同じ命を持っているのに、雑草ばかり悪者扱いされる。つい半時間前に瀕死のアボカドを植え替えした手で、ガシガシと無造作に草を抜いていく。
ここも。ここも。ここにも。
一度始めるとやめられなくなる。「30分くらいしたら帰っておいでよ」と言われていたけれど、すでに時間の感覚を忘れてしまう。ひたすら取った草を桶に放り込み続ける。
楽しいのか、と言われたら、うん、そうだと思う。無心になって手を動かし続ける。いっぱいになっていく桶とか、草のない場所が広がっていく地面とか、やった結果がそのまま目に見えるのがいい。
でも、ずっと草取りしていたいかと言うと、そういうわけではない。どれだけ抜いてもきりがない。焦りが生まれる。労力には限りがある。私の持ち時間はあらかじめ「30分くらい」と決めてある。これは勝負なのだ。時間内にどれだけの草をやっつけられるか。私は自分の仕事に決して満足しないだろう。なぜなら私が鎌を置いた後にもまだ草は残っているから。
畑の草取りをするのはずいぶん久しぶりだった。2、3年ぶりかもしれない。
畑までが遠いからなかなかできないんだと言い訳していたけれど、早起きするのは悪くないものだ。これでもっと近ければ毎週だって行くのに。
本当か?
実行しないことは嘘と同じだ。
そういえば、昨日、近所の公園でテニスをしたけれど地面が草ぼうぼうだった。あの辺、勝手に草むしりをしてもいいのだろうか。でも軍手を買わなくてはいけないし横着鎌も揃えるとなると、そこまでやるか?ちょっと気が引ける。公園の草取りとばーちゃんの畑の草取りでは、なんかやる意味が違う気がする。「誰のために」が明確になっていなければ、汗水垂らして働く意味がないというか。
ボランティア精神はどこへ行ったのか。いや元々そんなもの私の中にはなかった。公園の草を抜いたとて、一体、誰がありがたがってくれるものか。
じゃあ、なんのために今私はこんなことしているのか。抜いても抜いてもどうせまたすぐ生えてくるのに、わざわざ日曜日の朝5時に起き出して。
私にとっては、ばーちゃんのため、というのが一番大きな理由だ。「雨が降って草がいっっぱい生えてくるの」というのを聞いてしまったら、ひと肌脱ぎたい気持ちになるものだ。
実家を出る時、ばーちゃんが私に米と野菜を持たせてくれた。おまけにリュックをプレゼントしてくれた。猫がくっついている。「犬が良かったけど、猫しかなかった」と言って。私が使うにはあまりにも子供っぽいが、でも気持ちは有難かった。
それに引き換え私はほんのわずかな草しか取れなかった。いつももらっている何分の一にもならないだろう。ばーちゃんに、私はほとんど何も返すことができないんだ。実家に行くたびにそういう種類の悲しさを経験する。決して返せないものをたくさん受け取ってしまう。