押し入れから世界へ

2年間、一度も走っているところを見たことがない。押し入れにしまいっぱなしでは、せっかくのクロスバイクが泣いている。買った人は「高かった」と言うけど、このままではただの金の無駄遣いでは?
もったいないから私が乗ってあげましょう。

初めて乗った時、怖かった。
サドルが高い。車体を斜めに傾けて地面にようやく爪先が届くくらい。
腕を伸ばし、上体を倒してハンドルを握る。
オオツノヒツジの角のようにくるりと弧を描くハンドルだ。車体はクロスバイク、ハンドルをロードバイク用にわざわざカスタマイズしだらしい。何がいいのやら私にはよくわからないが。
腰が痛くなりそうだなと心配した。実際問題お尻が痛い。乗り慣れたシティバイクと違い、サドルが狭くて固いせいだ。こんな不自然な姿勢で、乗り心地の悪さではたして長距離を走れるのか。
とりあえず乗ってみることだ。慣れればこの良さがわかるだろう。

乗ってみると、一つ気がかりなことがあった。ブレーキが左しか効かないのだ。
自転車屋さんに聞いてみたら5秒で直してくれた。「ここが外れているだけですね」
なーんだ。

ブレーキの問題が解決したところで早速、自転車通勤開始。
距離は13キロ。1時間の距離だ。
バスに乗ってもどうせ1時間かかる。それなら自転車を走らせ風を感じていたい。

値が張ったというのは本当のようで、驚きの軽さだった。軽い。
シティサイクルに比べて惰性で進む力が高い。ペダルを漕ぐのを止めても、平らな道でかなりの距離を進んでいける。
漕ぐのもめちゃくちゃ楽だ。サドルが高いおかげで膝を伸ばしてペダルを踏むことができる。坂道ではギアを軽くする。ペダルが軽くなればギアを重くし、さらに速くなる。
どこまでも速く走っていける。
急ぐ必要は全然ないのに、嬉しくて速くなってしまうんだ。自転車とひとつになって、人間とはべつの、何か足の速い生き物になることができる。

だんだんコツが飲み込めてきた。

乗り降りを怖がっていたのが今では遠い昔のよう。ラウンドキックの要領で足を蹴り上げればいいと分かってからはスムーズに乗れるようになった。何を隠そう、ラウンドキックは得意なのだ。軸足(自転車の左側に立つ場合、左足)にしっかり体重を乗せておくと安定する。
ところで、私は手足とも左利きなんだけど、世の中の多くの人がそうするように自転車の左側に立つ。右側に立つと気持ち悪い。何でだろう。パソコンのマウスと同じようなものかな。

段差は可能な限り避ける。道の凸凹を目で確認しながら走る。どうしても乗り越えなくてはならない時には心持ちお尻を浮かせる。
危ない場所もわかってきた。横から突然車が飛び出してくることがあるから、脇道のある場所ではスピードを落とす。

他の自転車とすれ違う時も怖い。道幅の狭い歩道ではぶつからないか心配になる。
「自転車は車道を走るべし」というルールがあることを知っているし、クロスバイクで走るなら車道の方がいいともわかっている。そうはいっても白線と歩道の距離がほぼゼロな道路で、すぐ脇をでっかいトラックが轟音たてて通るような場所を走るのは気が進まない。
なんだこの、肩身が狭い思い。自転車専用道路がある場所は気持ちよく走れるんだけどな。
少なくとも自転車は歩道を走る場合でも、道路の左側を走るべきだと思う。走る方向が決まっていれば、追い越しはありでもすれ違いを避けることができる。

誰もいない道を、もっと自由に走ってみたいという気持ちもある。
けれども、安全に気を配りながら慎重に自転車を走らせるこの感覚も嫌ではない。
いい走りをしたいなと思う。つまり、自転車のことも、自分の身体も、周りのことも大事にできるような走り方。その時その時の最善を常に選びとれるように、たくさん走って上手くなりたい。

朝、真っ白い息を吐きながら坂道を上っていく。はるか東の空にうっすらかかる雲は、なんとも暖かそうな薔薇色をしている。そのうちにじんわり体が温まってきて、凍える指先にも熱が巡る。
夕方、橋を渡る途中で少しだけ自転車を止める。川面に映った夕焼けがあんまり綺麗だったから、素通りしてはもったいない気がしたんだ。それからずっと、家に着くまで星空の下を走っていく。
バスに乗っていた時よりもずっと強く、世界と繋がっている感覚。走ることがこんなにも嬉しいなんて、知らなかった。

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