紙片

海沿いの町の、路地の奥に、「紙片」というお気に入りの本屋さんがある。卒業する前にもう1度立ち寄りたいと思ってたんだけど、最近は店長さんが旅行に出られて休業続きだったので、もう間に合わないかもな、なんて思っていた。でも今日ね、ひっそり営業が再開されていることに気付いた。とてもうれしい。

この本屋さんへ行くには、電車とバスで結構な時間がかかる。だけどなんだか遣り切れない気分の時は、よくこのお店の本や音楽に会いに行く。ここで最後に買ったのは、原民喜の童話集だ。この本はほんのり優しい夜色の、けれどとても硬くて立派な函の中に収められている。手に取ってゆっくり読んでみたら、その理由が分かった気がした。大切に慎重に扱わないと、本の中のお話は今にもほどけてしまいそうだった。それは悲しいとか繊細とかそういう意味じゃなくて、なんていうか、ぎりぎりだった。水滴が混沌とした海に戻りかける、海の水面と滴が今に触れ合う、そのぎりぎり一歩手前みたいな。つまりもう少しでね、「意味」はほどけてしまいそうだった。もう誰にも触れないところまで。

例えば、「山へ登った毬」というお話がある。女の子が、山の絵が描かれた美しい毬を、学校の山登りに持って出かける。でも家に帰ると、なぜか毬がなくなっていて見つからない。で、それについてこう書かれる。

毬は、山へ連れて行かれたので急に元気になって勝手にはね廻って、ころころ、転んで、そのまま、「この山は僕の絵と似てるな」と云って、ねころんでしまったのでしょうか

このお話はね、実はそれだけです。それでおしまい。一瞬、え?と思う。え、私は今、何を読んだんだ? 違和感がじわじわ腹に溜まって、段々妙な笑いが込み上げてくる。だけどすごくね、好きだと思った。そんなお話を残していってくれた人がいたこと、それを大切に思って今、綺麗な1冊の本にまとめた人達がいること、それに自分がちゃんと出会えたこと。そのひとつひとつが無性に嬉しくて、お店から家に大事に連れ帰った。そこから彼の詩を読むようになって、去年出版された梯久美子さんの新書『原民喜 死と愛と孤独の肖像』を読んで(これもとてもいい本だった)、その後でようやく、被爆体験を基にした彼の”代表的”短編小説「夏の花」を読んだ。この話をするとね、読む順番がおかしいだろって、広島出身の友人には笑われます。でも私にとっては、多分この順番でよかったんだ。広島で暮らしている間に、けれど何かとても自然な形で、例えばなんでもない日に偶然おもしろい人に出会うみたいに、彼の文章にシンプルに出会わせてくれたことを、このお店には感謝している。あの童話集は多分、大きい本屋さんになら結構どこにでも置いてあったと思うんだよね。でもそこで見つけたとしても、私はきっと手に取れなかったと思う。それが自分にとって大切なものだってことに、気付けなかったと思うんだ。

紙片には、本についてのポップや説明書きはない。ただ、本がある。いくつかの選ばれた音楽が流れる、いくつかの選ばれた本のための空間の中で、その1冊のための棚の上、その1冊のためのライトの下、嬉しそうにちんまりと座る本がある。どんな本かなんて知らなくても大丈夫。どんな作者かなんて知らなくても大丈夫。あそこでならきっと上手に、「はじめまして」ができるから。

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