わたしが住んだ街のおはなし(さん)

 

 

「こんな広いひまわり畑、僕の街には無いんだよ!」太陽が遙か彼方に居座っていてわたしたちを見下していた。辺り一面、緑、茶、青、白、灰しかなかったのに歩いてると突然、黄の絨毯が現れたのだ。終わりが見えないほど果てまで広がる黄の暴力をわたしたちの目に受けた。

感動という言葉さえも生まれないほどにわたしはこの景色を見飽きていた。でも、隣にいる男の子は違ったのだ。目をキラキラと輝かせていた。ああ、黄の暴力に屈してしまった目だ。

「僕のところはね、こんな広い草原もないよ!ぐるっと回って青い空が満足に見れるところもないよ!こんなたくさんのひまわりもないんだよ!」

中学生になったばかり夏、ほんの少しの気まぐれでわたしは子どものわくわくキャンプ企画に参加した。たくさんの子どもたちとすこしの大人たちと北の国で2週間キャンプをして自然と触れ合いましょうという企画だった。参加者のほとんどは東の都からだったため、北の国の大自然のひとつひとつに感動していた。

「きみはーー素敵なところに生まれたんだね!」

 

 

今度こそと、わたしは進路希望書に東の都に近い街の大学の名前を書いた。その街はどうやら「科学最先端都市」やら「ロケットと共存する街」やら「超最大学園都市」やら「雄大なる山と蛙の油」と代名詞がとにかく多かった。

東の都まで1時間もいらずに行くことができる上、街並みも都会と呼ぶには物足りないが、田舎と呼ぶにはもったいないほど充実しているし、空気も澄んでいて美味しい。広がる田んぼも、草原も、森も、川もある。地下に埋められた横長い箱型の乗り物もあるし、3階以上の建物もあるし、美味しい煌めく喫茶店や幸せ一式を売りしているファーストフードもある。今までわたしが住んだ街を足して少し引いてから割ったような街だった。

その時、わたしは美術部に入っていて絵を描くのにハマっていた時期だったからというくだらない理由で絵を描く、アートをする、デザインをする、勉強ができたらいいなと思いながら大学を探していた。わたしが高校に進学し、寮生活を始めた機会に母はわたしが生まれた街へ戻り、父と弟と一緒に暮らしている。もう他の街へ引っ越すつもりはない、この街で骨を埋めると決意したのかは知らないが、そこに家を建てたのだ。家を建てている様子を帰省する度に見ていたこともあってわたしは家の設計をしてみたいという気持ちも生まれていた。

そんなふたつの理由を足したら「家のデザインの勉強をしてみよう」ということで建築とデザインの科目がある大学を、東の都から1時間以内で行ける学園都市から見つけ、そこを受験することに決めた。

なんていうのは綺麗な建前の理由で本当は、東の都に近ければどこでもよかったし、とりあえず大学に入っておけば将来の幅は広がるんじゃないかなと思っていたし、その時はまだ東の都に住む勇気がなかったから、あえて1時間近くものの時間がかかる街を選んだのだ。実は「先生になってみたい」という想いもひっそりあって、愛を知る地の大学も候補に入っていたが、東の都から遠いという理由だけで却下した。

わたしはとにかく、とにかく、一刻も早く、北の国から亡命したかったのだ。

進路希望書を提出したのは高校二年生の冬の終わり。同じ年の秋に大学の推薦入試があり、半年も無かった。幸い高校時代は何かと優等生を演じられていたため、推薦をもらうことは難しくなかった。しかし、推薦入試の内容がデッサンと小論文であった。今までデッサンをしたことがなかったわたしにとっては大きな壁だった。

「半年もないのですが、デッサンが書けるようになりたいんです」誰が聞いても驚くほど有名な芸術の大学を卒業した後、自由と平等と博愛の国に留学し、様々な芸術を体感し、濃すぎるほどの時間を積み重ねてきたはずなのに容姿が妙齢の女性の先生にわたしは助けを求めに行った。二つ返事で引き受けてくれた先生はわたしの力量の確認をしてきた。

「美術部だからある程度の基礎はできていると、いうことでいいわね?」

「いいえ、二年ぐらい美術部でしたが、遊んでいました」

先生は笑っていた。「そうね、あなたの絵を見たことがあるわ。このままでは受からないでしょう。推薦も厳しいわ。一般入試で勝ち取る気持ちでいきましょう」

その日からわたしは毎日毎日鉛筆を握り、真っ白のスケッチブックと向き合った。先生から出された課題は1日最低3枚は描くこと。土曜日は首都の美術専門学校に通うこと。日曜日は完全OFFの日にして何も描かないことの3つだった。

一方で小論文の方はわたしのクラスを担当している先生が幸か不幸か国語の専門だった。課題は平日に1日1テーマ、休日に1日2もしくは3テーマ、小論文を書くことだったが、いざやってみると1日1テーマところの話では無かった。前日のテーマを朝のホームルームのときに提出し、帰りのホームルームの時に添削されたものと新たなテーマを貰う。そして夜に添削された前日のテーマの修正文と、新たなテーマの小論文を書く。実質1日2テーマも書いていたのだ。月曜日なんか地獄だった。休日2日分の、 4から6テーマものの修正を求められていた。お陰で文章を書くことに慣れてしまった。

「全ては東の都の近くへ行くために」「北の国から抜け出すために」という狂気じみた思考にとり憑かれながら毎日毎日たくさんのデッサンとたくさんの小論文を書くこと半年、迎えた推薦入試をわたしは無事勝ち取ることができた。

四角い薄い箱に映し出された「合格発表」の下に見栄もなく並べられた数字たちの中から自分の数字を見つけた時は半年間努力してきた苦労が報われた喜びよりも先に「やっと北の国から出れるんだ」という喜びが生まれた。

そして高校卒業とともにわたしは北の国から卒業した。

 

想像以上に長くなってしまいました。続きますね。多分次で一旦終わるかと思います。次回やっと4つ目の、今住んでいる街のお話に入ります。

 

 

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