大人の定義は様々だが、僕は「僕たちはみんな大人になれなかった」で語られる「大人」について話す。それは社会に出た後に形成されるという「第二人格」と同じものをさす。なんとなく僕のなかでは答えが出きってしまっているので、さっと書こう。
まずは問題。社会人になれば大人になれる。まるかばつか。
まあ、ばつでしょうね。別に社会人になることが条件ではないはずです。ただ、大人である人を分類するときに、社会人か否かはけっこう良い分類機になったりします。
大人になるとは「他人のための自分を持つこと」だと定義している。これでだいたいの問題に当てはまる。「第二人格」というのは他人からの評価や外部からの責任によって生み出される自分とは異なる自分のことじゃないかな。そのとき、どう立ち振る舞うかで自分ならざる自分が立ち現れる。それに名前が必要だったので、「第二人格」と名前を付けたのでしょうね。
糸井さんは「社会にもまれることで、ひとはごつごつしていくんです。君は今真ん丸なの」と就活に悩む学生につげた。「君は真ん丸の自分をみてほしいという。けれど、ごつごつしないことには強くはなれない」と加えて告げる。よし、もう一度言おう。大人になるとは「自分ならざる自分」「他人のための自分」になることだと思う。これらの説明でなんとなくわかってきませんか。
燃え殻さんの文章がおっしゃりたいことはよくわかった。し、なぜがあれほどまで人々の共感を生んだのかもよくわかった。エモの正体が「現在と過去」や「現実と想像」などの間に存在するのだとすれば、燃え殻さんが僕たちに提示したエモは「他人のための自分」と「本当の自分」のはざまのふり幅だった。そして燃え殻さんは「他人のための自分」として生きていかなくてはいけない境遇のなかで、捨てきれない「自分自身」を懐かしく愛しんでいる。「強い」世界からみた彼は、あまりにも無力に見える。その哀れな姿を、燃え殻さんは「大人になれなかった」と素晴らしい着地点をみつけて読者に提示することに成功した。
そういえば、あやべが燃え殻さんの作品を呼んだあとに「こんな話をしてもいいんだ」と呟いた。その後、彼は「ぼくのダーリン」というWebサイトでエモ落語を書き始める。あやべのダーリンは少なくはあれど、着実に読者に支持をされていった。書店に流れこむサラリーマンや、通勤電車に詰め込まれるサラリーマンが、彼らの文章を読む理由は明らかだ。みんな「本当の自分」に立ち返りたいのだ。「他人のための自分」から。
どうする?もうちょっと例をだすかい?
うん、いいだろう。今日みんな大好き幻冬舎編集者の箕輪さんの動画をみていた。その動画の中で、彼は「なんで編集者を希望したのですか」と訊かれた。彼はこう答えた。「ふざけているのが価値になるのは、編集者かテレビディレクターしかないと思った」これは僕がテレビ局を志望していた理由とまったく同じだし、僕が大人になることをパスした理由とまったく同じだった。面接でいったら怒られたんだけど。つまり、社会には「本当の自分」で食っていける世界もあったりするのだ。
さてそろそろいいんじゃないすかね。けどここまで話したので、ある程度話そう。
燃え殻さんの「僕たちはみんな大人になれなかった」が異例のヒットをたたき出したように。「本当の自分」に立ち返りたいという気持ちは、強さの違いはあれど、すべての人に共通の想いなのではないかと僕は考えている。そして、恐ろしいほどに渇き、満たされないままに生かされていると感じる。そこに「自分に立ち返る」ための環境があれば、多くの人が必要とするのではないかと疑問に思い。すぐに確信に変わった。
ダーリンが提言する「自己本位な文章」とは、「他人のための自分」つまり「大人」から自分自身に立ち返る場所だ。僕は大人になることをパスしたのでこの環境に居座るし、ちょっと社会に辟易した人はふらっと訪れるといい。ずいぶん自分のためになると思うから。
今日も読んでくれてありがとう。「僕たちはみんな大人になれなかった」は以前言ったように、ダーリンの課題図書です。僕と会ったメンバーは、一言言っていただければ本を進呈しますので吉田と飲みに行きましょう。明日から東京です。
目からうろこ。。
他人のための自分なんて、間違ってる気がする。
大人はみんな、他人のために自分を全て捨ててしまえるの?もしそうなら、私大人になりたくないです。
じゃあなるのやめよう。けど強くなるには必要だと思うよ