武士道の「礼」、パンチラインきまりすぎ問題。

最近「武士道」を読んでいる。神宮寺と大学であったとき、彼が新渡戸稲造の原著をよんでいるのを見つけて、ちらっと眺めてみたのだ。そこに書かれていた「礼」についての文章が、非常に優れてみたのでさっそく購入し、ESを書かずにもくもくと読んでみた。

武士道は、まずコアの概念を丁寧に解説している。「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」の順に記述されている。その中でも、「礼」についての解説が非常に優れており、現代に生きる我々にも必要不可欠な教養だと感じた。今回は簡単に共有しようと思う。吉田新訳武士道である。

まずは「礼」と「優美」さの関係

何事であれ、もし何かをしようとすれば、それをなすための最善の方法というものがあるはずである。そしてその最善の方法とは、最も無駄がなく、最も優美な方法となるだろう。
スペンサー(英国の社会学者)は「優美とはもっとも無駄のない動き」と定義している。たとえば、茶道は茶碗や茶杓、茶巾などの扱いに一定の決まった作法を示す。それは初心者には退屈にすら思える。けれどもやがて、そうした定められた作法が、結局はもっとも時間や労力の節約になっていることに気づく。要するに、それがもっとも無駄のないやり方であり、スペンサーの言うところの「優美な方法」であることを発見するのだ。

(中略)

優美さが、無駄を省いた作法という言葉が真実なら、優美な立ち居振る舞いのあくなき練習は、論理的にいえば、内なる余力を蓄えることにつながる。したがって洗練された作法というものは平静状態の無限なる力を意味する。
(完)

最高では!!!!?????パンチラインバチぼこキメ太郎やん。
まず、新渡戸さんが言及するのは、「礼」は「最も無駄のない作法」である。ということです。そして無駄のない作法は「優美」であると言及します。まずこの気づきが素晴らしいですよね。
僕としては、礼儀って堅苦しくない?と思っていたのですね。人に挨拶するさいのお辞儀の仕方とか、食事の作法とか、そんなん相手に誠意が伝わればよいし、おいしくご飯が食べれられたら良いじゃんと考えてました。つまり、生産性がないと考えていたのですね。
実は「礼」というのは「無駄をはぶく作法」だったのです。そして、その動きには優美であるというのだから、目から鱗です。
新渡戸さんは、僕に追い打ちをかけるように「論理的」にも「礼」を言及します。彼は言うには「洗練された作法というものは平静状態の無限なる力を意味する」のですね。無駄を省き、うちに集中していった力は自らの資産として積み重なっていくのですね。完全にやられてしまった。

機械学習の使命は「効率化」にある。みんな大好き落合洋一さんのモットーは「人が抱える圧倒的な無駄を排除する」である。その一方で、彼は千利休の茶室を現代にも作りたいと発言している。現代に「侘び寂び」の概念を持ち出すことに、どれくらいの正しさがあるのか釈然としなかったのだが、武士道の「礼」の記述を読んで、機械学習と詫び寂びの共通項を見出すことができた。それは、「人間の無駄を省き、平静状態の力を高めること」にあったのだ。僕が機械学習を始めたのは、上司の一言がきっかけだった。「機械学習は、人間を知ることだ」僕は彼の真意の一片を、武士道を読んでなんとなく理解することができた。

今日も読んでくれてありがとう。「優美とは、最も無駄のない動き」か。素晴らしい言葉だと思う。テクノロジーとアートは実はとても接近しているのだ。わくわくしない?

“武士道の「礼」、パンチラインきまりすぎ問題。” への2件の返信

  1. さて、問題の神宮寺ですが、現在「武士道」を離れ、ハリーポッターと児童文学を読み漁ってました。ハリーポッターがなかなかすすまねえ…
    これを読んで武士道アツいと思いました。ワクワクした。そのうち戻ってきます。

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