「僕」が「わたし」になるまで

 

 

 

「ここにいるみんな優しくてね、ここなら、本当の僕でいてもいいんだって思えるんだ」日付はとっくに超えていて、帰るための電車がもう無い深夜、雑居ビルの隅でひっそり営業しているバーで鏡月のゆず味をロックで飲んでいる男性はそう口をこぼした。

 

「僕は普通じゃないんだ」と思ってしまった時、世界は灰色になったんだ。人生でそう思ってしまったのは3回あった。

 

耳の機能を備え付け忘れて生まれてしまったわたしは何不自由ない子供時代を過ごしてきた。コミュニケーションは声だけじゃない。身振りや筆談、手話、表情など多様な方法でこれまで乗り切ったわたしはある日、あの人に出会った。

それは耳の中に直接機械を入れてより聞こえをよくするものを入れた子供二人を持つ母だった。

小学低学年の頃、あの人が家に遊びに来た。わたしの母とそれなりに仲がよかったのだ。母とあの人が喋っている間、わたしは自分の部屋で遊んでいた。すると、母が「ちょっといい?話がしたいんだって」と呼び出されわたしはあの人と顔を合わせることになった。

これが初対面ではないため、それほど緊張はしなかったのを覚えている。いつもは優しく、わたしに伝わるように話してくれる人だった。

しかし、その日は違った。あの人は話し始めた。耳の機能を備え付けて生まれてきた人同士だけがわかるような話し方だった。もちろんわたしに伝わることはないし、わたしの耳に届くこともなかった。

わたしは何を言ってるかわからず、助けを求めようと母の顔を見た。すると、あの人は私の肩を鷲掴みした。思わずわたしの視線はあの人の顔へ戻した。あの人は今度はわたしにわかるように話しかけてきた。

「さっきの私の話がわからなかったんでしょう。私は普通の話し方をしていたつもりよ。耳が聞こえないことは不幸なことだわ。あなたもやっぱり手術をして機械を入れるべきよ」

その時、わたしは「普通じゃないんだ」とあの人によってそう思わされた。その後あの人は機械を入れることによる効果やそのままで社会に出た後の苦労さをわたしに話してくれたが、これというほど全く心に響かなかった。

あの人が帰った後わたしは泣いてしまった。

「言い方はひどかったね。彼女は手術をすすめてきたけど、どうするかは自分が決めていいよ。手術によっていいことはさっき聞いたでしょ。でもいいことだけじゃないの。手術しても相性が悪かったら聞こえないままなんてこともあるみたいだよ。ママはあなたが決めたことを応援するから、手術したくなったらいつでも言ってね」と母はわたしを慰めてくれた。

そしてわたしは「普通じゃなくてもいい」という覚悟を、10年も生きていないうちに決めて「手術は受けない」と母に伝えた。「いいよ」と母は軽く笑っていた。

わたしに「お前は普通の子じゃないんだ」と言われてしまったあの人がとても苦手になり、もう会いたくないと母に告げた。「いいよ」と母はまた軽く笑っていた。そしてその時からもうあの人に会うことは無かった。それが1回目だった。

 

わたしの初恋は覚えていない。覚えていないというよりかは”わからない”の方が正しいかもしれない。母から聞いた話では幼稚園児の頃のわたしは相当のキス魔らしく、通っていた幼稚園のこどもの大半の初キス相手は身内を除いてわたしだったらしい。こどもに限らず先生にまでキスをするような子だったらしい。

そして通っていた幼稚園のこどもたちひとりずつ「だいすき」と告げては回る子だったらしい。わたしのキス魔は幼稚園に限らず、身内にも及んだ。親戚全員にキスをしたことまであるらしい。そこに性別は関係無かった。

だからわたしの初恋と初めてのキスは一体どの相手だったのかは「わからない」が正しいかもしれない。こんな無差別大量キス魔のわたしがおそらく人生で初めて本気に近い告白をしようとしたことは覚えている。小学生の頃だったと思う。とても仲がよかった近所のお兄ちゃんを好きになったことがある。

お兄ちゃんとわたしはとても仲がよく、いつも遊んでいた。いつも話していた。何がきっかけかはもう覚えていないが、気づいたらわたしはお兄ちゃんのことが気になっていたのだ。

告白してみようと思った頃、わたしはお兄ちゃんと恋愛話をした。そして軽く「もし男の子が君のことを好きって言ってきたらどうする?」と聞いたことがある。お兄ちゃんは明らかに拒絶した顔で「それはやだな、気持ち悪い。普通じゃないじゃん」そのときわたしは笑って「冗談だよ」と返したが、心は泣いていた。

おとこはおんなを、おんなはおとこを、好きになるのが「普通」ということを理解することがなかなかできなかったわたしは大きな絶望感を抱いた。

「やっぱり僕は普通じゃないのか」その日の夜は泣き明かした。それが2回目だった。

 

小さい頃からわたしは外で思いっきり遊び、虫取りや魚釣りをし、なによりキャンプを好んでいた。その一方でおままごとも、人形遊びも大好きだった。シルバニアファミリーもレゴのブロックも大好きだった。

アニメに至っては初代プリキュアを毎週欠かさず見ていたし、ドラゴンボールやワンピースももちろんチェックは欠かさず、友人とその戦闘ごっこもしたこともある。

様々な遊びがとにかく好きだったわたしは男の子とも女の子とも誰でもすぐ仲良くなれた。男の子だらけで公園で思いっきり遊ぶこともあれば、女の子だらけの中に混じって家でおままごとをしたこともある。

母は人の趣味を否定しないタイプだったのか、プリキュアやおままごと、人形遊びをするわたしをやめさせるようなことはしなかった。むしろ「好きなことは好きなようにやりなさい」といろいろなことをやらせてくれた。「これが男らしくていいとおもう」「女っぽいからやめなさい」というようなことを言わない母に育てられたわたしの子供時代は自分の性別を深く考えることはあまり無かった。

一応、自分は男という認識は持っていたが、それは身体的特徴の区別上の男ということだった。身体的特徴は男と女の二種類があり、身体的特徴によってトイレや更衣室、温泉が区別されていて、わたしは男だから男のところに入る、ということは理解していた。

小学生の頃、2年間ほどわたしのクラスの担当をした男の先生がいた。小学時代、男の先生が担当だったことはその時だけであり、他の4年間は女の先生が担当していた。

その男の先生はいわゆる熱血先生だった。熱いタイプの、最悪なことに「男とは何か?」を語ってしまうような先生だった。何が原因かは覚えていないが、わたしが泣いてしまったことがある。その時、先生に「男がめそめそ泣くんじゃねえぞ、情けないぞ」と言われたその言葉、その表情は今も鮮明に覚えている。

その熱血先生の熱い指導の2年間が幸か不幸か「僕はふつうじゃないおとこなんだ」と気づかされた。それが3回目だった。ふつうじゃないおとこという状態で中学生と高校生で男女別に定められた制服を身に纏い、心に棲みつく違和感という魔物は大きくなっていった。

 

大学が決まり、東の都に近い学園都市に引っ越すほんの少し前、高校卒業したわたしはもう2度と着ないであろう制服を眺めては「これからは自分らしく生きたいな」と思っていた。あんなモノはできれば2度と着たくない。

大学生になったら、服装も自由になる。自分を縛るモノはかなり減るんだ。そして、東の都に近い学園都市、そこには様々な人がいるんだろう。全国のあちこちから人が集まるような大学であるからこそなおさらわたしはワクワクしていた。

「これから自分に嘘をつくのはできるだけやめよう」と思ったわたしは大学進学し、できた友達には「自分は耳が聞こえない」「自分は自分のことを男と認識したことがない」「自分は男も女もどちらも好きになるんだ」と伝えていった。

拒絶されるのは怖い。でもそれより怖かったのは自分でなくなることだった。

伝えた友人の中には「えっそうなんだ」と驚き戸惑う人もいれば「そういう人に会ったことがないの!聞かせて!」と興味を持ってくれる人もいれば「ふーん」で終わる人もいた。わたしが意外だったのはそこに拒絶する人はいなかった。

そこから大学時代、わたしは本当に様々な人々に出会った。様々な境遇を抱えた人々に。様々な「自分」を持った人々に。そこに「普通」なんてものは初めからなかったんだと。そう知ることができたわたしは過去の呪縛から解放されたような気がした。

 

「ここにいるみんな優しくてね、ここなら、本当の僕でいてもいいんだって思えるんだ」日付はとっくに超えていて、帰るための電車がもう無い深夜、雑居ビルの隅でひっそり営業しているバーで鏡月のゆず味をロックで飲んでいる男性はそう口をこぼした。

男性は男が好きで、その自分を周りの人に言えずにいた。言う勇気が、機会が、なかなか無かったらしい。

「もう可愛いんだから!いつでも来なさいね!」バーカウンターに立っていたママは男性に近寄っては頭を撫でながらそう言っていた。筋肉質な体つきに坊主に近い短髪に髭を生やしていたママは「さあ、次はどれ飲むかしら。なんでもあるよ、遠慮しないで!」と笑顔でメニューを渡してくれた。わたしはそれを受け取った。

「普通」という言葉に苦しめられ悩まされた子供時代がとても馬鹿馬鹿しい。でもそれもこれもどれも今のわたしを形成する出来事になっていったんだなとわたしはそう思いながら「じゃあ同じ鏡月のゆずでロックでいいです」と注文した。

 

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