英語史の講義

英語史の授業を私は去年取っていた。それまでの私は英語の発音と綴りの不一致に辟易していたのだけれど、時間の流れの中で変化していった結果なのだとわかった今は、綴りの厄介さもおもしろく感じられる。
例えば、cow(牛)はなぜ綴り通り「コウ」ではなくて、「カウ」と発音するのか。

現在の英語の姿になるまでには、言語を異にする民族の侵略や技術革新の影響を受けながら幾度も変化を経験してきたのだ。ヴァイキングの言語、ドイツ語のもととなったゲルマン語、フランス語との言語接触を受けてきた歴史、地方でバラバラな方言が話されていた時代、また、方言が統一されていった時代。大母音推移。その都度英語はダイナミックに変化を繰り広げてきた。その一方で、昔の姿のまま変わらずに残る部分もあった。古英語、中英語の名残が現代の英語の中に、例えば発音と綴りのズレや格変化の例外として、生き続けている。

初めは ハイ・ハイ・ハイレベルな授業の進みについていくのがやっとだった。
しかし講義が後半に差し掛かると、リウマチの痛みと駐車場の蜂と高校・大学時代の逸話へと、英語史と関係ない方向へしばしば逸れた。イギリスに留学した時の話もね。私がちょうど生まれる頃、先生はイギリスで研究されていたのだそう。
いまは腰の痛みのために飛行機に乗って学会に出かけるのもままならない身だけれど、若い時にはあちこちの学会に出かけては研究の成果を発表していた…。

「さて、どこまで話しましたかな」
思い出したように先生は授業資料に目を戻す。去りし日の記憶に漂い出て、もう授業に戻ってこないのかと私は幾度か心配してしまった。

「英語の教員課程をやっているのに英語史を開講しない大学もあるというのは、どういうことでしょうかね」
そうおっしゃる時の先生は、肩を落としてなんだか寂しそうに見えた。
「そういう学生が英語の先生になった時、knightの’k’は発音しないのになぜ書く必要があるのか、などと生徒に聞かれた日には、きっと答えられないじゃないですか」
先生は英語史の必要性を熱弁されるものの、もしかしたら次第に先細りになりつつある分野なのかもしれない。

ただの私の憶測だけどね。
でももし確実にこの分野が廃れつつあるのだとしたら、なんと勿体無いことだろう。

過去の英語の姿が明らかになったのは、先人たちのたゆまぬ努力があってこそ。英語史の研究の地道さも講義の中で語られていた。例えばカンタベリ物語の中のある単語の用例を一つ一つ調べていくつあるかを集計する。そんなしらみつぶしの積み重ね。パソコンがない時代はもっともっと大変だっただろうなぁ。

もし英語史が完全に廃れてしまうことがあれば、人類全体にとって大きな損失であるに違いない。昔の言語の姿を再現できる人が誰もいなくなってしまうということだ。謎は謎のまま残される。いつか、go-went-gone、なぜこんな不規則格変化を起こすのか、知る手立てが永遠に失われてしまったら、

もちろん、英語が時代によってどのように変化してきたかなど、知らなくても英語を話すことはできる。
それでも、たとえ時代が移ろって英語史の研究が誰からも必要とされなくなったとしても、「なんでこんな綴り方なのか?」という疑問はきっと誰かの心に生まれるはずだ。

なによりも、真摯に研究に打ち込む人がいるという事実に私は心動かされる。英語史の講義を通して、どこまでも果てしなく広がる英語史の景色の一端を垣間見ることができたように思う。それだけではない。そこを歩いて行く方法も先生は教えてくださった。

リウマチや昔の思い出や駐車場の蜂の話の中に、ものすごく大事なことをさらっと語られていたんだ。

“英語史の講義” への2件の返信

    1. 出典を言うと講義プリントです。英語史の本でいいのないか探しておきますね!

      英語史は関係ないのですが、実はこの投稿を書く前に読んでいた本があって、カズオ・イシグロ『日の名残り』と内田樹『街場の教育論』。『日の名残り』の主人公が英語史の先生のイメージを呼び起こして、『街場の教育論』が衰退しつつある学問としての英語史のイメージを作り出して、その結果がこの文章です。

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