形だけ、平易な文章はいやだ。

こんにちは、よしだじゅんやです。

 

さて今日も研究を始める前に文章をかいて頭のストレッチをします。ほんとうに推敲もされていなければ、意義もない文章をかくことでおなじみとなっています。

 

さて、昨日久しぶりに自分の書いた文章を読んでみました。東京物件探しとハルキストよりという文章です。どちらもまあまあちゃんと考えをまとめつつ書いたものです。どうだろう一時間くらいかけて書いた気がするな。

東京徒然物件探し

ハルキストより

 

読んでみて気づいたことは、現在の僕の文章がかなりひどい、ということです。よくお笑い芸人さんが「芸が荒れてる」とか発言したりします。まさにそんな感じで「文章が荒れてる」のです。もっと入り込むと「文体が荒れてる」と言えるかもしれません。

 

昨日はちまきが「文体に興味を持った」という話をしていましたが、僕も文体というものには人一倍興味があったりします。村上春樹は「誠実である、リズムがある、サービスがある」という自身の文章の三か条をあげています。僕もかなりそれに影響をうけていて、僕にとっての文体の三か条は「平易である、リズムがある、サービスがある」としています。別に文章で飯をくってるわけではないので、そんな胸をはって言えることではないんですが、心意気としてはかなり大事にしています。

 

「平易である」とは。「平易である」はどこからやってきたか。という話をします。

僕はみなさんご存知の通り、糸井重里さんが好きなのです、糸井重里さんの、思想が8、文体が2くらいの比率で好きです。というと、思想と文体が切り離されているようで嫌だな。糸井さんの「やさしく、つよく、おもしろく」という言葉の中で、平易さは、やさしさにあたります。なるべく小難しい言葉遣いをしない、漢字とひらがなの比率、句読点の位置、結論までの流れ。といったところが、技術的に説明できます。が、もうちょっと大切なことがあります。

糸井さんの文章というのは、みなさんみたことあるかわかりませんが、本当に読みやすいです。たまに読みやすすぎて「絵本を読まされているのかしら」という不安も覚えます。ようは、真似をしようとしたらそれっぽいものはいくらでも書けるんですね。けど、真似をしているだけの人の文章はそれこそ「なんだ絵本の読み聞かせか?」と読んでいていらいらする文章になりがちです。その差というのが「思想」があるかどうかだと思うのですね。「やさしく」の部分です。

やさしくというのは、読みやすいということではありません。全員の共通言語で、あえて浅めて書く。ということになります。宗教も、哲学も、芸術も、政治も、みんな浅める。これはけっこう難しいんです。例えばジャズの成り立ちを話すとします。知識があると、どうしても和声の話だったり、コード進行の話だったり、ジャンルの枝分かれについて説明したくなりますよね。けど、まず和声の前知識があることが前提となったり、一から和声を教えたりしないといけません。それは敷居を高めることになるし、そもそもなんでこの話したかったんだっけ?という目的の喪失を招きかねません。知識を吸収したい人は、論文を読んだり批評家の文章を読めばいいんです。

糸井重里さんがやってるのは、あえて、そういう難しい話をやめちゃう。それより、もっと抽象度をたかめて、で、ジャズってなんで気持ちがいいんだっけ?という話をしてみたり。そしたら自然と和声の話が出てきて腑に落ちたり。これはあなたの生活でもあてはまりますよね?と提示したり。その人が日常で使えるところまでうまく落とし込まれています。これが浅める。ということであり、僕が意識している「平易である」ということになります。

 

で、まとめですが、なんで僕が最近の文章を読んで「文体が荒れてる」と思ったかというと、形だけの平易さになっていたなあと気づいたからです。ただただ平易なだけで、「やさしい」という思想がまったく含まれていなかったんですね。結構反省しました。

 

今日も読んでくれてありがとう。最近はけんすうさんの文章を真似して書いていますよ。この人の文章好きだなあと読んでいたのですが、けんすうさんも糸井重里に大きな影響を受けていると発言しているのを後日知りました。「平易である」文章は、目立たないけど、最後まで生きてると思うんです。

 

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