リュウがいることが当たり前の日々①

それがリュウとの出会いだった。

中庭のソテツの木の裏にあるベンチはひとりになりたい時にちょうどいい。通り道から外れたところにあることに加え、大きく広がるギザギザの葉っぱがベンチに座る人の姿を隠してくれる。
カバンを開けてそうっと取り出したのは、返却されたばかりの世界史のテストの答案。教室の誰もかれもが端を折り曲げて点数を隠そうとするけれど、わたしはそんな野暮はしない。折れ目のないまっすぐな紙のままファイルに収めて持ち帰る。見たいやつは見ればいい。どのみちわたしの点数など見ようとする人は1人もいないのだけど。
「94点」
「うわあ!」
突然ふってわいたように大きな影が差し、それでわたしは何者かに覗き込まれていることを知った。
振り向いて腰を抜かしそうになった。それは人ではなかった。青緑の鱗に覆われた体、ひょろ長い首、笹の葉のような切っ先鋭い耳、狐に似た尖った鼻先。後ろ足で立つ背丈は、わたしよりほんの少し高いくらい。ただし、黄金色の2本の角を勘定に入れなければ。背中についている翼は、ほんわり黄色く光を発していた。こんな小さな翼でいったいどうやって空を飛ぶのだろうか。
ついで、視界に入ってきたのはゆらゆらと揺れる長いひも。
りゅうのひげ。頭の中にぱっと言葉が浮かぶ。
不気味といえば不気味だった。先の尖った手足の指は血に浸したみたいな真っ赤な色をしていて、「たった今、人を殺してきました」と言われたら一も二もなく信じてしまっただろう。
それでもなぜか、きれいだ、と感じた。山奥の谷川の深みみたいな色をした鱗のきらめきや、感情の読めない爬虫類じみた瞳の色に、思わず引き込まれてしまう。
「全然悪い点じゃない。とてもいいじゃないか」
そいつは首を傾げて確かにそう言った。口元でちらりと牙が光る。けれども口は閉じたまま動かない。
わたしは辺りを見回した。ソテツの葉っぱを透かした遥か向こうに空っぽの渡り廊下が伸びている。しかし、目の前に立つでかいトカゲ以外に言葉を発するような人影はどこにも見当たらなかった。
「わたしに言ってるんですか?」恐る恐る尋ねた。
「うん。なんでそんなに浮かない顔するのかなって思ったから」
男なのか女なのかはっきりわからない。その声から、つまらなそうな表情をした子どもを思い浮かべた。浮かない顔してるのはそっちこそじゃないか。
「どうしてそんなに、頑張らないといけないんだろう」
大トカゲに対して話しかけるというよりも、半ば自分に向かってわたしは呟いた。
「頑張らないといけないの?大学に行きたいから?」
声は不思議そうに響いた。同時に、大トカゲが瞬きをした。わたしはその瞳の色が黒ではなく、深い紫色をしていることに気づいた。
「ううん、大学に行きたいわけじゃないけど」
「大学に行きたくて勉強しているんじゃないんだ」
「わたしが勝手に思ってるだけです。頑張らないといけないって。それで、苦しくなった」
思いのほか簡単に言えた。親にも先生にも友達にも、誰にも言ったことのない弱音。
「どうしてそんなに頑張るんだい?」
「頑張りたいから。頑張っていないと不安になるから」
水の中で揺れているみたいにゆったりとたなびくヒゲに、わたしは目を奪われる。
「変なの」
笑っているみたいに見えた。ヒゲの先が震える。温度のない目がすっと細まる。口もとは動かないままだ。
変なの。
他の誰かに言われたのならたちまち気分を害したかもしれない。なのに、わたしに伝わってくるその声にはむしろ温かささえ感じられた。
不意に、自分が憂鬱に思っていたことが、どうしようもなくちっぽけなことだったと気づいた。頑張りたくなければ、頑張らないでいい。そんな簡単なことをわたしはどうしても実行に移せないでいたのだ。変なの。

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